■39話■



「仁・智・夕を兼ね備えた射手座のアイオロス。これよりはおまえに教皇の座をまかせることにする」

 シオンは静かな声で言った。

「は?」

 アイオロスは伏せていた顔を思わず上げると、驚いたように言った。

「わ…、わたしがですか……」

 その声にははっきりと戸惑いが浮かんでいた。これは何かの間違いではないのか。聖衣を得て間もなくの頃ならいざ知らず、最近のサガの強さは目を瞠(みは)るものがある。星見の的確さでも、アイオロスはサガに滅多に勝てなかった。時折、サガはシオンを凌ぐことさえあった。
 周囲もサガがその座を得るに違いない、と噂していた。当然自分もサガが選ばれるものと思ってここへ来た。教皇は黄金聖闘士の中でも最強の者が選ばれる。自分が「最強」でないことは悔しかったが、ここで言う「最強」とは戦闘能力のことだけではない。文官的素質、政治家的素質もすべて含めたものだから、仕方がない。アイオロスはそう思っていた。なのに。

 シオンはアイオロスのそんな思いに構うことなく続けた。

「黄金聖闘士十二人とはいえ、まだ幼い者がかなり多い。白銀聖闘士、青銅聖闘士しかりだ。だが遅くとも十年ののちには必ず聖戦が起きる。その時のために女神をりっぱに成長させ、そして多くの聖闘士たちを育ててもらいたい」

 女神の降臨より少し前に、黄金聖闘士の最後の一人が聖域へと迎えられた。教皇の言うとおり、今はまだほんの子供だったが、この子たちが青年となり、身体能力の最高潮を迎えた時に聖戦が起こるのだろう。

「サガよ」

 シオンはサガの方を向き、言った。

「はっ」
「聞いたとおりだ。アイオロスに力を貸してこれかも聖域のためにつくしてくれ。よいな…」
「はい」

 サガは俯いたままで言った。

「アイオロスこそ次期教皇にふさわしい立派な聖闘士だとわたしも思っていました」

 そこまで言うと、サガは顔を上げた。仮面を着けたシオンと目が合った。サガは、満足そうな微笑みすら浮かべていた。穏やかなサガの表情を見て、シオンは安堵した。シオンはサガが教皇の座に執着していると思っていたのだ。ああ見えて、サガは心底負けず嫌いだということをシオンは知っている。リウテスはカノンのことを短慮だの、下品だの、あの短気は資質を欠く証拠だと言って憚らなかったが、なんの、サガも一皮剥けばカノンに負けるとも劣らぬ激しい気性の持ち主だ。そして相当の自信家でもある。アイオロスを指名した際、抗議の声を上げるに違いないと思っていた。そのときを考え、シオンは答えを幾通りも用意していた。が、シオンの懸念は杞憂に終わった。

「アイオロスに協力を惜しまず女神のため正義のために、このサガこれからも一命をかけてつくしましょう」

 サガは笑顔を浮かべて、シオンを見た。なるほど、神のような、と謳われる笑顔だった。

 教皇庁を出たところで、アイオロスはサガに声を掛けた。

「サガ……、俺は……」

 サガは相変わらず穏やかな微笑みを浮かべたまま言った。

「アイオロス。今度という今度は、『俺』でなく『わたし』と改めなければならんな。教皇が皆の前で『俺』というのは格好がつなかい」
「あ…、ああ……」

 サガはその微笑みの下に、焼けつくような嫉妬を、たぎる怒りを抱えていた。

 なぜだ!
 なぜわたしが選ばれなかったのだ!

 サガは、アイオロスの顔を見ながら、今までの出来事は幾度となく反芻した。何度思い出しても、どう考えてみても、なぜサガが選ばれなかったのか分からない。

 わたしが負け?わたしの方が絶対にアイオロスより優れている。わたしの方が教皇に向いている。アイオロスは単純で、戦うしか能がない。それは幼い他の黄金聖闘士たちに比べれば遥かに優れているだろう。だがわたしと比べるなら、わたしの方が確実に優れている。

 わたしに教皇に相応しくない部分がたった一つも無かったとは言わない。だが、それはアイオロスだって同じだ。アイオロスにだって、相応しくない部分はいくつもある。それなのに一体なぜわたしが選ばれなかったのだ。

 人馬宮でアイオロスと別れると、サガは一人白い石段を下った。遠く遥かへ目を遣ると、太陽は地中海に沈み、空は水平線にわずかに濃い茜色を残していた。十二宮はどこも無人だった。まだ幼い黄金聖闘士たちは訓練に出ているのか。夕日を受けてキラキラと輝くサガの黄金の鎧はひどく重かった。

 がちゃり、と部屋の取っ手が動く音がした。サガが戻ったのだ。カノンはサガの気配を察して居間の役割を果たしている部屋で待っていた。

「次期教皇は、アイオロスだ。わたしではない」

 素っ気ない口調でサガが言った。カノンが何か違う話題を聞き違えたかと思ったほどだった。

「教皇はアイオロスを次期教皇に指名なされた。わたしにはアイオロスを補佐し、女神を支えよ、と」

 尚も平板な口調で、サガは繰り返した。その言葉を聞いて、カノンは驚きとともに何かから心が解放されるのを感じた。

 ほらな、そんなことじゃねえかと思ったんだよ。

 そう思う心とは裏腹に、カノンは大げさに驚いてみせた。

「なんだと?!選ばれたのはお前じゃないのか!」

 サガは表情を変えず、小さくああ、と呟いた。

「あいつ、どこまで老いぼれてやがるんだ!サガがあいつより弱いわけねえじゃねえか!あのじじい、『最強』ってどういう意味が分かってんのか?」

 その言葉に、サガの瞳が幽かに潤んだのをカノンは見逃さなかった。

「百歩譲って、あいつの方が腕っぷしは上だったとしても、頭の良さでおまえにかなうわけない。俺は、街で数えきれないほどの人間を見て来たが、おまえほど優れた奴はいなかった。お前の頭の良さは、お勉強が出来るだけじゃない。判断力、統率力、そして何より洞察力。おまえは世界を渡って行けるレベルだ。あんな駄馬なんぞ比べものにもならない!」

 カノンは、サガが今どんな言葉を欲しているか手に取るように分かった。カノンは、こういうゲームが好きだった。人は、好条件を並べただけでは堕ちない。人を堕とすには、心を動かすことが必要なのだ。

 カノンは、聖域以外の世界を知らないサガのコンプレックスを逆手に取った。カノンは街に出て、沢山の様々な人々と接触を持って来た。そのカノンが言うのだ。サガほど優れた人間はいない、と。今、自分の全てを否定されたサガにとって、これほど嬉しい言葉はない。サガはじっと黙ったままだったが、カノンはその心のゆらぎを見通していた。

「だから言ったろ?お前はこんなところにいるのはもったいないんだ。街に行こうぜ。俺と一緒に。そのキンキラキンは売っちまえばいい。相当な金になる。そういうの、好きなヤツがいるんだよ。阿呆みたいに集めててさ、とんでもない金を出す」

 だがカノンは知っている。サガは街になど行かない。あくまでも聖域に居たいのだ。カノンは、そうと知った上で街へ出たら二人でどんな生活をするかを延々と語った。サガのいらだちを最大限にするために。

 もう少しだ。

「カノン、悪いが―――」

 サガが切り出した。

 ほうれ、おいでなすった。

 カノンは作戦通りの展開に、思わずほくそ笑んだ。

「わたしは、聖域を出るつもりはない」
「……そうか………」

 カノンは、落胆してみせた。

「ならば、俺に罪滅ぼしをさせてくれ」
「罪滅ぼし、だと?」

 サガは思いもよらぬカノンの申し出に思わず鸚鵡返しに言った。

「そうだとも。兄さんが、教皇に選ばれなかったのは俺のせいだ。俺が、今まで色々不始末を起こしたせいだ。すまなかった、まさかこんなことになるなんて、俺、思ってなかったんだ……。もう手遅れだが、せめてその罪滅ぼしと、今まで必死に俺を庇ってくれた兄さんに、ほんの少しの恩返しをさせて欲しい」

 さんざん苛立たせておいて、今度はお涙頂戴のイイ話を振る。感動の振り幅を可能な限り大きくして、カノンはサガを篭絡するつもりだった。

「俺が、あいつを倒す」

 サガは、カノンが誰を倒そうとしているのか分かっていた。だが、敢えて聞いた。

「あいつ、とは?」

 カノンは跪き、恭順の意を身体で現し、キッと顔を上げてサガに言った。

「射手座の、アイオロス」

 カノンとの確執が始まって以来、カノンが兄に対してこのような敬意を表すのは初めてだった。サガは、今までの自分の苦労が報われたような気がした。

「兄さんの苦労は、報われるべきだ」

 カノンが、サガの心を覗き込んだかのように言った。

「兄さんが、教皇に、いやこの聖域の支配者になるべきだ。ならなければならない。兄さんは、女神の始末を」

 ざわりとサガの中でまたも何かがざわめいた。今まで、ずっと抑えて来たもの。今まで、ずっと溜め込んできたもの。

「聖域のためじゃない。人類の、いや世界のためだ。兄さん、言ったじゃないか。自分たちの手で、聖戦を終わらせるって。馬鹿みたいに何度も繰り返して、沢山の聖闘士を死なせて。もうたくさんだ、こんなくだらない戦いは、今回で終わらせてみせるって言ったろう?!」

 サガを動かすには、大義名分が必要なことをカノンは知っていた。サガの心はこれ以上ないほどに揺り動かされ、溢れんばかりの感情が荒れ狂っていた。

「だから、邪魔な奴は消してしまおう。これは、正義のためなんだ。人類に、いや世界に永久の平和をもたらすために、今俺たちが立ち上がるしかない!サガ、女神なぞ殺してしまえ。まだ赤子に過ぎぬ女神など、くびり殺すのはわけもないこと。お前が神になるのだ。お前が、この大地の神となるのだ!」

 サガの心は密かに恐慌を来した。感情が限界を越えて爆発しそうだった。それをカノンに見抜かれるわけにはいかない。覗き込むようなカノンの目から逃れるために、サガは荒い息をこらえながら、カノンを殴り飛ばした。

「うっ」

 カノンは石の床へと倒れた。

「カノンもう一度いってみろ!いかに弟といえども聞き捨てならんぞ!」

 サガは大きく肩で息をしながら言った。たった一発殴っただけで、黄金聖闘士がこんなザマを晒すはずがない。

「ア…女神を……、先ごろこの聖域に降臨なされた女神を殺せだと……」

 サガは目を閉じて、苦しそうな息を繰り返しながら言った。カノンは感情を殺した、平板な声で言った。サガが自分の気持ちを悟られないように語るときの声だ。この声ならば、今のサガは俺の声か、自分の心の声か分からない。

「そうだサガ……女神だけじゃない。次期教皇にアイオロスなどを選んだマヌケな教皇も共に殺してしまえといってるんだ」

 落ち着け、落ち着け。ここが、勝負どころだ。

「幸いオレたちが双子だとは誰もしらん。そうすれば地上はオレたちのものだ」

 サガは驚いたように言った。

「誰も知らない、だと?!」

 カノンは自信に満ちた瞳をしてゆっくりと頷いた。

「カノン、あの二人がいるではないか!オルコスが!ヨランドが!!」

 カノンは片方の口角を上げ、にやりと笑った。

「カノン……、まさか…、まさか……!」

 カノンは悪魔のような笑みを浮かべ、蛇のような残忍な瞳をして言った。

「サガだってロヨルを殺したろう?」
「!」
「サガだって、自分のためにロヨルを殺したんだろう?それと、同じだよ」

 サガは目が眩むような思いだった。ざわざわと自分の中で何かが暴れている。

「し…正気かカノン……。オレたちは女神を守るべき聖闘士!おまえもこのサガに何かあった時は双子座の聖闘士として闘わねばならんのだぞ!」

「フッ、兄さん。いい加減で正直になったらどうだ」
「なに」
「確かに幼い頃から兄さんは心優しき神のような男として育ってきた。ひきかえオレは悪事ばかりを好んできた。同じ双子とはいえまるで天使と悪魔ほどの違いがある」

 さぁ、サガ。オレのところへ来い。オレとともに生きよう。

「だがオレは知っているのだぞ 兄さんの心にもオレと同じ悪が眠っていることをな……」
「な…!」

 カノンは絶対に言ってはならない言葉を口にしてしまったことに気付かなかった。次の瞬間、サガは小宇宙を爆発させた。

「だ…だまれ!もはやおまえのような悪魔をこのまま放っておくわけにはいかん!この兄自らの手でスニオン岬の岩ろうに幽閉してくれる!!」

 サガは、自分の中で暴れているものにカノンが気付いたのだと思い込んだ。カノンと言えど、否、カノンだからこそ、絶対に知られてはならなかった。絶対に、知られたくなかった。



前へ  /  次へ