■32話■ 「!」 サガは、雷に打たれたような衝撃を感じた。 小宇宙、というわけではなかった。だが、確かに感じる。 どこからだ? これは…、これは……! カノンは音もなくリウテスの部屋へと忍び込んだ。 開け放たれた窓からゆうるりと風が部屋へと流れ込み、何枚かの書類をゆっくりと床へと散らした。 リウテスは小さく舌打ちをして、書類を拾おうとこちらへと向きを変え、椅子から手を伸ばし、そこでようやく部屋の異変に気付いた。 「な…何者か!」 カノンは目深にフードを被っていたから、リウテスからは全く顔は見えない。だが。 「リウテス様。小宇宙にてお分かりにはなられませぬか」 「なに……!?」 「嘆かわしいことだ。あなた様とて聖闘士ではないか。わたしが誰であるか、わたしの小宇宙を見てもお分かりにならぬとは。いや、小宇宙を見ることすらもうお出来にならないのか」 「き…き…貴様……!あまりふざけた真似をするとただでは済まさぬぞ!顔を見せい!!この無礼者め!」 リウテスはそう言うと、カノンへ目がけて拳を放った。 その拳が生み出した衝撃は、カノンの顔面へと炸裂するはずだった。だが、実際は何も起こらなかった。リウテスの目には、カノンがその拳を交わしたことさえ映らなかった。 「畏れながら申し上げます。あなた様も、訓練に参加なさるべきだ。今の拳では、訓練生にも劣りましょう」 「このわたしと心得ての狼藉だな!ただでは済まさぬ!その命で贖ってもらおう!」 「命で……?」 「そうだとも!ええい、顔を見せろと言うておるのが聞こえないのか!!」 リウテスは再び拳を放った。その拳はフードをかすめ、吹き飛ばした。その下から現れたのは、不敵に笑ったカノンの顔だった。 「それはこっちの台詞なんだよ」 その顔を見て、リウテスは凍りついた。 カノンには以前にも殺されかけている。あのときは教皇に庇われる形で難を逃れたが、あの圧倒的な小宇宙の恐ろしさは今でもはっきりと覚えていた。 「か…カノン……!」 リウテスは尻餅をついて、わなわなと大きく震えながら後ずさった。 カノンは拳を握った。 外傷を残さず、一発で心臓を止める衝撃を与えなければならない。 拳の速さは、当てる強さは。 カノンは瞬時に頭の中で計算した。 眼光は鋭く、リウテスを射抜く。リウテスは哀れなほど慌てふためいていた。 「ま…待て!なぜ、なぜわたしを殺そうとする!わたしが何をした!お…おちつけ、カノン、落ち着くのだ!」 「ぐだぐだ言ってて仕留め損なうと面倒なの!」 カノンは左の拳に力を込めた。そして、腕をすっと引く。 「じゃあなリウテス」 次の瞬間。 殺される!リウテスはきつく目を瞑って頭を抱えた。 が。何も起こらなかった。 放たれようとしていたカノンの拳は、そこに現れた者によって止められたからだ。 「何をしている、カノン」 「ちっ!」 姿を現したのはサガだった。 あの、小宇宙と呼ぶには微弱にすぎる波動を察知することは、サガ以外の人間には不可能だっただろう。 頭を抱えて震えていたリウテスは、思いがけない声に恐る恐る顔を上げた。そこにはカノンの拳を捻り上げるサガの姿があった。 「くっ…!はなせ……っ!」 「血迷ったかカノン。これは聖域に対する反逆と見なされても文句は言えぬぞ」 「いいから離せ…っ!説明なら後でいやと言うほどしてやる…!」 「聞けぬ」 サガはカノンに冷たく言い放った。 「わたしは黄金聖闘士だ。聖域を守ることはわたしのつとめだ」 「う……」 サガの言は有無を言わさぬ威厳を帯びていた。 「去ねカノン。双子座の黄金聖闘士としてお前に命ずる。双児宮にてわたしが戻るまで待て」 カノンは驚きを隠せなかった。カノンはサガに完全に圧倒されていた。 こいつ、こんなに強かったか……? 「二度は言わぬぞ」 「くそっ……」 カノンはサガから手を振りほどくと、現れた時と同じように音もなく姿を消した。 サガは瞳に濃い憂いの色を浮かべて、カノンが姿を消した場所を見つめて立ち尽くした。自分は決して間違ってはいない。自分は正しく役割をこなしただけだ。だが、これでまた、二人の溝は深くなってしまうだろう。だが、これ以外に、自分にどのような道があったと言うのか。カノン、どうか、どうかわたしの置かれた立場を、わたしの気持ちを分かってほしい。 鋭い洞察力を持つお前のことだ。分からぬはずがないではないか。どうかカノン……。 サガの思考は、過ぎた日の記憶を紡ぎ出した。 あれは、2ヶ月、いや、3ヵ月前のことだったか。聖域に、また一人、黄金の鎧を纏う人物が現れた。聞けば、北欧の出身だと言う。なるほど、抜けるように肌は白く、髪も、瞳も、薄い色の、まるで少女のように美しい少年だった。そのあまりの美しさに、女神が降臨したと勘違いした者もいたほどだったと聞く。 神の使徒と呼ばれるに相応しい麗しい見目の少年の出現に、聖域は沸いた。 また一人、最強の戦士である黄金聖闘士がこの聖域に迎えられたのだ。至るところに宴の席が設けられ、十二宮に詰める者も、その下で働く者も、聖域で暮らす者全員が祝いの宴へと招かれた。 その日、例によってふらりと戻っていたカノンは、その華やいだ雰囲気を横目に冷めた口調でこう言った。 「ここの連中って、頭おかしいヤツしかいないんじゃねえの?」 サガはその意味を解しかねた。 怪訝な表情をして、黙ってカノンを見つめるサガに、カノンはこう続けた。 「なにが目出度いのか、まったく理解出来ないね。黄金聖闘士がもう一人増えたってことは、そんだけ聖戦が近づいてるってことだろ?戦争が始まるのが目出度いって?てめえが殺されるかもしれねえし、仲間だってやられるのが出んじゃねえの?それに、こっちが負けりゃあ世界が滅亡するんだろ?それのどこが目出度いのか、俺にはこれっぽっちも理解出来ねーな。目出度いのは、お前らの頭の方だって言ってやりたいね」 カノンは馬鹿にしたような表情を浮かべ、せせら笑いながらそう言った。宴に参加している人間に聞かれたら、間違いなく横っ面を張り倒されるだろう。だが、サガはカノンを怒ることは出来なかった。それまで己の心の中にわだかまっていたものの正体を突き付けられたからだ。 そうだ。 聖戦に我々が敗れれば、世界は滅びるのだ。 冥王ハーデス。死の世界を司る神の手に世界が落ちたら、そこに広がるのは一体どのような世界なのだろう。この世界に生きるものは全て死に絶え、累々と骸が転がっている。人間も、動物も、植物もすべて。原始的な生き物に至るまでを滅ぼしてしまうなら、死体が土に還ることさえない。生きとし生けるものすべての死骸が山と積み上げられた、永遠に時間の止まった動くもののない、恐ろしい静寂だけが支配する世界になってしまうのだろうか。 我々が負けるはずなどない。 我々は常勝の女神の加護を受けている。今まで神代の代から一度として負けたことなどないではないか。 聖域の者たちは口を揃えてそう言うだろう。 だが、それがこの先も負けないという補償になり得るだろうか。今まで運よく、一度も負けずに来れただけではないのか。我々が誤謬(ごびゅう)を犯している可能性はないと言いきれるか。 現に、自分は黄金聖闘士の一人だ。確かに自分は強い。この聖域の中で、自分を倒すことが出来る者はいないだろう。運が良ければ、同じ黄金聖闘士である射手座のアイオロスが成すことが出来るかもしれない。だが、自分が、そしてアイオロスが、冥界の戦士たちと比べても間違いなく最強だと言えるだろうか。自分たちの強さは、あくまで聖域の中のものさしで計っただけでしかないのに。 自分が、世界最強? あらためてそう考えてみると、サガには、とてもそんな風には思えなかった。 自分がどんな立場に置かれているのかを―――こんな小さな聖域の中に於いてではなく―――、カノンの一言がサガに気付かせた。 自分は、強くならねばならない。世界を守れるのは、自分しかいないのだ。誰よりも強くなって、誰にも負けないだけの力を身に付けなければ。必ず、必ず身に付けてみせる。神さえも倒す力を、必ずこの手に掴んでみせる……! あの日、サガは戦慄く拳を強く握って、心に誓ったのだ。 「さ……サガ様……、サガ様……!」 サガは、リウテスの声によって現実に引き戻された。 「さすがサガ様だ。心よりお礼を申し上げる。わたしが一体なぜこのような目に遭わねばならぬのか!サガ様、カノンめの処分、サガ様もご賛同くださいますな?」 リウテスは、カノンに対する先ほどのきついサガの物言いを聞いて、サガは自分の味方だと思い込んだようだった。 「サガ様、もうご心配めさるな。カノンめの奔放にこれ以上悩む必要はございません。このリウテスがサガ様のお立場が更に良きものとなるよう尽力いたしましょう」 ちらりとサガは横目でリウテスを見た。リウテスはそれに気づき、更に畳みかけるように言った。 「いえ、サガ様。これは私情からの言ではございませんぞ?わたくしも聖闘士の端くれにございます。聖域のためを思えばこそ!!」 「リウテス殿。聖域のため、とおっしゃられるか」 サガはリウテスの方へと向き直り、正面から見据えて言った。 「もちろんにございます!このリウテス、どうすれば聖域のためになるのか、常に、常にそればかりを考えておりますれば…!」 サガはリウテスの、その芝居がかった物言いに嫌悪感を覚えながらも、表情に出すことはなく続けた。 「ではリウテス殿。聖域のためとおっしゃるのなら、わたしの問いにお答えいただきたい」 カノンが去った窓から、緩やかな風が再び部屋へと流れ込んだ。机の上から、再び書類が何枚か床へと散った。空には、白い月が大きく輝いていた。美しい、静かな夜だった。 |