■31話■ どこまでも白く続く階段は、ところどころが欠け、或はすり減って丸みを帯びていて、ここに造られてから気の遠くなるような時間が流れたことを物語っていた。 あたりは紺碧の闇だった。中天に白く月が輝いている。 慌てることはない、と何度自分の心に言い聞かせても、カノンの足は小走りになってしまうのだった。 街に自分が居たことを、リウテスに気付かれたかだろうか。 あの教会で、リウテスは自分だと気付いたのだろうか。 それを考えると居ても立ってもいられなかったから、カノンは取るものも取り敢えず聖域に戻って来たのだった。 あのリウテスのことだ。もしも自分に気付いたなら、即座に自分を吊るし上げに来るに決まっている。 ひょっとしたら、自分が戻る前に兄のところへと来たかもしれないと思って肝を冷やしながら兄を訪ねたのだが、どうやらそれはまだのようだった。 自分の方が、リウテスよりひと足早く戻ったのかも知れない。 そう思ってカノンは兄の持ち物である白い砦の、小さな隠し部屋でリウテスが現れるのを待ったが、彼は一向に姿を見せなかった。 部屋で待つ間、カノンは自分の迂闊さに気付いた。 リウテスが自分を詰問しに訪れれば良い。だが、向こうが自分を訪わなかった場合は一体どうすれば良い? 聖域へ戻ればすぐに答えが出ると思っていた。目先のことしか考えず、その先を考えていない。自分はいつもそうだ。考えていないということも全く自覚がなかったのだから傑作だ。 どうすれば良い? 傑作ついでにリウテスを訪ね、「自分が街にいたことに気がつきましたか?」とでも尋ねるか。 焦燥に焼かれ、部屋でじっとしていることが出来なくなったカノンは、考えがまとまらないままあの黒いローブを目深に被って部屋を出て、白い階段を上り始めたのだった。 「む?」 サガは、燭台を手元に引き寄せると、その帳簿に記された文字列を指でなぞった。 まただ。 間違いない。気のせいかとも思ったのが、こう何回も同じことが繰り返されては考えを改めざるを得なかった。 聖域外に屋敷を買う、あるいは古くから付き合いのある団体を、より協力的な組織とするために大規模な接待を行うなど、聖域に定められている額を越えた金額が動く取引が、ここ数年で驚くほど件数が増えていた。 そして、その詳細が記されているはずの帳簿は、保管されているはずのこの書庫のどこを探しても一冊として見当たらなかった。 ここにある帳簿類の持ち出しを許可出来るのは、教皇とリウテスの二人のみである。 教皇が許可した可能性も無いではないが、ここのところ、教皇はひたすらに星見に没頭していた。聖戦が近いのだとも、大きな星の導きが近いのだとも噂されていた。 教皇がそちらに注力するようになったため、サガにもこの任務が回って来たとも言える。 ともかく、今の状況を鑑みれば、帳簿を持ち出した、あるいは帳簿の持ち出しを許可したのは、リウテスと考える方が余程自然だった。 さて。 ここはどうしたものだろう。 リウテスを詰問したところで答えは見つからないだろう。 あのたぬき爺が、正面から責めたところでまともに答えるはずがない。 誰かに罪をなすりつけ、自分は難を逃れるに決まっている。 下手をすれば、疑いようの無い帳簿を新たに作って、完全に証拠を隠滅してしまうかもしれない。 どうすれば良いだろう。 サガは、高い位置にある小さな窓を見上げた。 窓からは、月の白い光が差し込んでいた。 部屋でじっとしているのはあまりにも苦しいから、取り敢えずは様子を伺おうと思ってこうして階段を登って来た。 自分の不祥事をあのリウテスが伏せておくとは思えない。ロヨルと相談しているかもしれないし、教皇に報告している可能性だって十分にある。 リウテスの執務室を覗くことが出来る崖の上にカノンは居た。 リウテスは蝋燭に灯をともして、山となった書類の片づけに没頭していた。あの教会で見たリウテスは、すでに街で幾日かを過ごしていたのだろう。あれはおそらくその間に溜まった書類だ。さっと目を通しては署名をし、或いは署名をせずに脇へとよけた。 急ぎのものだけに取り急ぎ署名をしているのだろうか。それとも問題のある書類ははねているのか。 確定はしかねるが、こうして見ている限りではリウテスは気付いていないか、もしくはまだ誰にも話していないように見えた。 そうか。 俺はどこまで馬鹿なんだ。 カノンは不敵な笑みをその顔に浮かべた。 殺してしまえば良いんだ。 死人に口なしって昔から言うじゃないか。 さて、どうやろう。 なぶり殺しにしてやりたいところだが、小宇宙は使えない。 サガに嫌疑がかかることのないようにしなければならないからだ。 サガ。あいつ、まだ書庫にいるのかな。 ちっ、とカノンは舌打ちした。 出来れば、アイオロスあたりと一緒に居てもらいたかった。 あいつの間の悪さと来たら、昔っからちっとも変わらない。 まぁ、それはさておき。 理想は、自殺だな。 何らかの事情があって、自ら命を絶ったというのが一番良い。だが、そんな事情がヤツにあるだろうか?街に居たってのも、俺みたいに勝手に抜け出したわけではないから、何の弱みにもならないだろう。 首にひもをひっかけて、あの豪華なシャンデリアにつるしてやろうと思ったんだが、自殺するような可愛らしいタマじゃねーか。 では仕方がない。 定番で面白くないが、心臓麻痺でお亡くなりいただくか。 これはかなりの名案と思われた。なにせあの体型だ。贅沢病の慣れの果て。自分の左胸を抑えて、泡を吹いてひっくり返っていたところで、誰も不審には思うまい。 では、おだまりいただきましょうか、リウテス様。そう、永遠にね。 カノンはそう小さく呟くと、一歩を踏み出した。 |