人が真剣にアドバイスしてるのに緊張感なく笑ったままの彼を一瞥し、ピアノの前から彼を押し退けた。
そしてピアノの前の椅子に腰掛け、鍵盤に指を置いた。
特に思い入れもない作品だが、楽譜くらいは読める。
それに何度か聴いたこともある。
作曲者が生きた国。
そこで彼が見た壮大な自然。
それを見た時の感動。
その場、その瞬間に、今自分も居合わせている。
そんなイメージを頭に思い浮べながら奏でる。
たったそれだけのこと。
ごく簡単なことだ。
集中力を切らすことなく指先を鍵盤を叩き続け、気づけば曲の終盤に差し掛かっていた。
最後の音符を鳴らして指を止める。
「・・・ぶっ・・・ブラボー!!ブぅラぁ〜ボぉ〜ぅ!!」
力一杯の拍手と共に彼が叫ぶ。
「教授から一度も聞いたことない曲の楽譜いきなり渡されてね、うまく弾けなかったんすよ〜!
ありがとう!そんな曲だったのだな!そうかそうか!」
高いテンションで握手を求めてくる、その手を振りほどくと、彼は不思議そうな顔で俺を見た。
俺は苛立ちを抱えたまま、彼をそこに残し教室を後にしようと歩き出した。
直後に、背後でギシっと椅子に腰掛ける音がして、「え〜っと。」という言葉の後にピアノの演奏が始まった。
教室のドアに手をかけていた俺は、思わず足を止めた。
先ほどと同じ演奏者とは思えない淀みないメロディ。
一定のテンポ。
強弱もちゃんとある。
スケールの大きな自然の中に身を置かれたような感覚に陥る。
ピアノの方を振り返る。
無心で奏でる彼の曲に、俺はしばし聴き入った。