「いやぁ、ごめんごめん。」
やっと彼がテーブルに小走りで戻ってきた。
「ちょっと仕事が立て込んでてさ。ごめんな。何食べる?」
彼の詫びの言葉の後に、彼女の啜り泣く声が聞こえてきた。
「・・・初めて一緒に過ごす誕生日だったのに・・・」
彼女は俯き、指で涙を拭った。
「いや、あのさ・・・」
「私より仕事の方が大事なの?私って仕事以下なの?」
彼の言葉を遮るように、彼女の言葉は続く。
「・・・店の人にまで気を遣わせてしまって・・・なんだかすごく惨めな気分・・・」
彼の方はどう声をかけていいのかわからず、おろおろとしている。
またも店内が重い空気に包まれた。
「・・・もういい・・・何も食べたくない・・・私、帰る・・・さよなら・・・」
彼女はバッグを持って椅子から立ち上がった。
「ちょっと待てよ。」
いきなり村上が両手を広げ彼女の行く手を阻んだ。
「仕事しねぇ男より、頑張って仕事してる男の方が魅力あるんじゃねぇの?」
「村上さん!」
北山がこれ以上言うなという意味で名前を呼ぶが、意に関せず、村上は言葉を続けた。
「そりゃあさ、仕事しすぎで全く仕事以外のことをそっちのけにするような奴だったら、さっさと別れちまえばいい。
けど現にこいつは、どんなに仕事が忙しくてもあんたとメシ食いたいと思ったから、あんたをここに連れてきたんだろ?いい奴じゃねぇか。
・・・それに比べて俺達を見てみろよ。こんな客も来ねぇような店でボサッとつっ立ってるだけでさ。
こっちの方がよっぽど惨めだぜ?こんな姿、好きなオンナに見せたかねぇよ。」
カップルは呆気にとられて村上を見つめている。
「俺なんてさ、いつも暇で暇で何もすることないからさ、こんなことぐらいしかできないんだよ、ねっ!!」
『ねっ!!』と言ったタイミングで、カップルの目の前にあったテーブルのクロスを両手で一気に引き抜いた。
「わっ?!」「きゃぁっ!」
カップルは村上の突拍子もない行動に一瞬目を瞑ったが、目の前のグラスや皿が床に落ちずにテーブルに残っていることに目を白黒させて驚いている。
「出た!マチャアキのかくし芸だ!」
安岡が村上に向かって拍手をした。
「お前もできるだろうが。」
村上は安岡の方を振り返って言った。
「いやいや、村上さんほど、では!」
安岡は『では!』のタイミングで、隣のテーブルのクロスを引き抜いた。
テーブルの上の小さな花瓶の一輪の花は倒れることなく、凛とした様子で咲き続けている。
「とにかくさぁ、せっかく来たんだから何か食って帰れば?」
村上は彼女を半ば強引に椅子に座らせた。