その日を境に、俺はどうにかしてサックスを吹く機会が作れないだろうかと思うようになっていた。
何日か悩み続けたが、やっぱりもう一度吹いてみたいという気持ちは揺るがなかった。
俺は家を飛び出て、近くにある楽器店へと飛び込んだ。
店内を物色していると、店員に声をかけられた。
「お客さま、何をお探しでしょう?」
「えっと、サックスを・・・」
「サックスにもいろいろな種類がありますが・・・」
「えっと・・・テナー(だっけ?)」
「テナーでしたら、こちらでございます。」
案内されたショーケースの前で、目を見開く。
どれもこれも20万円以上もする・・・
「ショーケースから取り出すこともできますので、お手に取って・・・」
「ま、また来ますっ!」
店員の前から脱兎のごとく逃げ出して、そのまま500メートルほど走り続けた。
我ながら結構な距離だ。
「はぁっ・・・あんなに高いとは思わなかったな・・・はぁっ・・・」
膝に手をついて息を整える。
ノドはカラカラ。
カラダ中の水分という水分が汗となって流れ出て、最終的には干からびそうなほどだ。
俺が立っていた背後でゆっくりとドアが開き、同時に店内から流れだしたクーラーの冷気が俺を包み込んだ。
振り返るとそこに、恰幅のよい白髪のオジチャンがドアの向こうから顔を覗かせていた。
ちょっとドラクエのトルネコっぽい風貌だ・・・。
「・・・お?・・・君、汗ダクでどうしたんだね?」
「いや、あの〜、ちょっと全力疾走したら、こんなことに・・・」
『汗ダク』ってコトバは余計だろ、と少々カチンときながらも、そんな悪い人そうにも見えなかったんで正直に答えた。
「そうか。冷たいコーヒーでも淹れてあげるから、一服していけばどうだい?」
「いや、あの・・・今お金持ってなくて・・・」
「はっはっはっ!心配しなくていい。ウチは喫茶店じゃないから、金は取らんよ。」
「え?じゃあ何屋さん・・・?」
「君らみたいな若者にはわからんだろうが、入ってみればわかる。まぁ、涼んでいくがいい。」
終始朗らかな笑顔を浮かべるオジチャンを見てると、断るのもなんだか悪い気がしたので、「じゃあお言葉に甘えて」と答えた。
店内に入ると、店内には古ぼけたレコードや本や写真などが所狭しと並べてあった。
「ここ、は・・・?」
「ジャズの専門店だよ。」
「ジャズ・・・?ジャスコじゃなくて?」
「どう見てもジャスコではないねぇ。チェーン展開もしておらん。」
オジチャンは、『Peace』と書かれた円柱型の缶からタバコを1本取り出し、口にくわえて火をつけた。
「ジャズっていうのは、コレだよ。」
そう言ってオジチャンは上を指差した。
しかしオジチャンの頭上にも俺の頭上にも、何もない。
ふと店内に流れているメロディに気づき、耳を澄ます。
「今流れてるのが・・・ですか?」
「そうだ。まぁ、ジャズというのは、簡単にいうと音楽のジャンルのことだな。
ほら、世界史でも習ったろう・・・アフリカから多くの黒人がアメリカに連れて来られた、ってのは知ってるな?」
「あ、はい・・・」
「その結果、西洋音楽とアフリカ音楽が融合してできあがったのが、このジャズだ。」
「へぇ〜、ジャズっていうのかぁ〜・・・あ!コレ、サックスだ!コレ、今鳴ってるの、サックスですよねぇ?!」
「・・・ああ。今はそうだな。サックスのソロパートだな。」
「すっごくかっこいいな〜・・・」
「今かけてるのはこのアルバムだ。」
オジチャンは紙製のレコードジャケットを取り出した。
「アメリカの有名なジャズ・ビッグバンドの名盤じゃ。」
「ジャズ・・・ビッグバンド・・・?」
「スウィングジャズ・・・って言ってもわからんか。大勢で演奏するタイプのものだ。」
名盤だとかいうそのレコードジャケットをもう一度眺める。
ジャケットには白いスーツを着た5人の男が映っている。
「え?でもコレ映ってるの、大勢じゃないですよ?」
「ああ、そうだな。ジャケットの表は主要メンバーだけだったか。ほい、ウラを見てみなさい。」
ジャケットを裏返すと、さっき表で映っていた5人が最前列に並び、その後ろに同じ白スーツを着た男たちが20人ほど立っている。
「ホントだ。たくさんいた。」
もう一度ジャケットを表に向ける。
ニッコリ笑ったガイジンさん5人組。
ドラムセットに座ってる人。
ピアノに座ってる人。
トランペットを手にしてる人。
トロンボーンを手にしてる人。
サックスを手にしてる人・・・。
「あれ?これ・・・俺たちみたい・・・」
「ん?」
「こ、これだ!これしかないよ!・・・ねぇ、オジチャン!」
「ど、どうしたんだ、いきなり・・・」
「俺、ジャズやりたい!どうしたらいい?!」
このチャンスを逃さない手はない、と俺はオジチャンの手を取り、握り締める。
「ふむ・・・やりたいのならワシが教えてやってもいいが・・・音楽はどれぐらいできるんだ・・・?」
「楽譜は読めない。サックスは『バースのテーマ』だけなら少し。」
「・・・“バースのテーマ”・・・“だけ”・・・?」
「♪びゃ〜びゃ びゃっびゃびゃびゃびゃ びゃ〜びゃ〜びゃ、びゃっびゃ びゃ〜びゃ びゃっびゃびゃらびゃ
びゃ〜びゃ〜びゃ〜。
・・・って、これだけです。」
俺は『細かすぎるモノマネ』のマネを交えてオジチャンに説明した。
「何だそれは・・・」
「いや、これが、あの〜、『バースのテーマ』なんですけど・・・」
「音符少なすぎるな・・・こりゃイチから教えんとダメだな・・・」
「サックス初心者ですけど、俺にジャズを教えてください!お願いします!」
「その前に、ちゃんと吹けるようになれ。・・・な?」
「は・・・あはっ・・・」
「笑いごとじゃなくてだな・・・」