赤ずきんちゃん気をつけて
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「あ、あの、リオン?」
 三年間で不本意に鍛えあげた直感が拾う、例えようのない不吉にスタンは声上擦らせ、足を引けばその分を埋めるようにリオンが足を進める。
 まっすぐこちらを向いた表情は常のごとく無に近い端麗秀抜な花の貌で、しかし背後に毒の樹液滴らせる触手の幻が見えたのは気のせいか。


「ここは春からお前が通う大学まで一駅だ。自宅から通うより、その分長寝ができるぞ」
 いいアイデアだろう、と唇の端に得意げな笑みのせて、ほざくリオンの中ではスタンがこの家に転がりこむのがもう決定事項らしい。
 スタンはなるべく、同じ屋根の下にいるであろうリオンの家族に気づかれぬよう穏便に、暴君の説得に入る。



「ごめん。俺、こんな高そうな部屋の家賃なんか払えない。折半でも絶対無理だ。三分の一、五分の一もあやしい」
「なら肉体労働で払え。家事をしろ。だいたいこの家は賃貸じゃなく、すでに買ったものだ。家事だけじゃ気が咎めるというのなら、自分が使った光熱費だけ払え」

「ええと、ここ、駅から遠いよな。自分の家から通うのと大差ないような?」
「このマンションから最寄り駅まで約十五分。お前の家は最寄りまで十分の、大学近くまで四つは駅を過ぎる。寝汚いお前のことだ。乗っているうちに寝過ごす可能性もある。それでも心配なら、春休みの間に自動車免許を取れ。車の一台ぐらい貸してやる」

「……俺みたいな他人が上がりこんじゃ迷惑だろ」
「お前は他人じゃない、僕の奴隷だ」
「……」



 ああ言えばこう言う、こう答えればああ返す。まさに水掛け論の手本、ここにあり。
 傲然と言いきられ、スタンは言葉をつまらせた。


 リオンは、「いまさらなにを言う」とは続けなかったが、それでもスタンが躊躇っているのは遠慮のため。だがじき『名案』に尻尾振って首を縦に振ると信じきっているのが誇らしげな顔色からよく判る。
 あどけない童が空にかかる望月の影を上臈と見立て、あれは月に帰ったかぐやひめ、残したおじいさまおばあさまがが恋しくて泣いている、と、信じていると言うなら罪もないしまだ愛らしいが、リオンはものの分別とうの昔に知った歳のはずであり、彼の発言は頬をほころばせるどころか凍風叩きつけたかにひきつらせる、スタンをよくよく躾けられた犬か馬かと間違えているのではないか。


 さてこの怪物を説得するにはどうすればいいのか。一度家に帰って小学校時代使っていた道徳の教科書交えたほうがやりやすいだろうかと、悩みだしたがまずかった。


「スタン」


 ふいに顎の下で声がして、スタンの意識を懊悩の沼から引きずりあげる。
 気づけばリオンの顔がすぐ下に、上げた表情にはなにやら雨に濡れた海棠のごとき悩ましげな艶がある。
 一瞬色香に当てられひゅっと息呑んだスタン、反射的に後ずさろうとするがいつのまにか腕を捕まれ動けない。


 いや、動こうと思えば動ける。跳ね除けようとするのもたやすい。
 腕をつかむリオンの手は、あの鬼神のような膂力微塵もみせずただそっと羽根のように添えるだけの――――スタンには、できない。


 コート越しに伝わる、つい先ほどまで寒風にさらされ冷たいはずのリオンの手は火で炙ったかのように熱く、その熱が『あの日』を思い起こさせ、スタンは棒を呑んだように直立不動で固まった。





 ――――暑い、日だった。
 狭い駅のトイレの中は窓が締め切られており、通る風といえば天井近くに取り付けられた換気扇からぐらいの、本当に、暑かった。
 汗でぬめる、重ねた肌が熱かった。
 緊張に干上がった喉へ送る唾液が。
 漏らすまいと咥内で噛みしめた嬌声が。
 はだけられた胸の上を滑るリオンの舌が。
 腰のものに押し当てられる、同じように隆起したリオンの雄芯が。
 体にべたりとこびりつく、二人分の白濁が。
 熱くて。熱くて。熱くて。
 ――――たまらなくて。





「……スタン」
「――――ッ!」




 するりとリオンの指が腕を滑って、厚い布地を通して伝わる薄い震えに、スタンはあの蝉の声かまびすしい夏の日から、寒風窓を揺らす冬の今日に立ち返る。
 スタンはとっさに顔を俯けリオンの眼差しから逃れると、それ以上の記憶の再生を止めた。
 いま顔を上げることはできない。前には、こちらを見つめるリオンがいる。
 その目に映る自分はきっと、情けない、だらしない顔をしているに違いない。


 スタンの人生を変えたあの日の記憶は、ことあるごとに――主にリオンから辱めを受けている最中など――蘇り、スタンを心体ともに呪縛した。
 いっそリオンから離れることができれば、逃れることができればこの忌まわしい呪いも解けてくれるに違いないと、スタンはそう信じている。
 だがそのためには、やはり脅迫の証拠となる例の『証拠の写真』が必要だ。


(……そうだ写真ッ)


 スタンの脳内でぱちりと記憶と希望が繋がる。
 先ほどまで頭の芯を痺れさせていた淫熱は涼風に吹き飛ばされる靄と晴れ、かわりに水底まで透きとおる水量豊かな湖の聡明さを取り戻す。
 リオンは家への誘い文句の中に例の証拠のことも含めていた。
 同居の交渉の際、きっといつものように証拠をねたに要求を通すつもりなのだろう。
 その時は、どうにか同居話を破談にし、『証拠の写真データ』も渡してもらえるよう説得しなければ。
 いや、なんだったらいったん同居を了承するふりをし、隙をみてデータを奪い返すという手もある。


 脅迫のネタが手に入ればこちらのものだ。
 リオンがなにをどう駄々を捏ねたって、証拠がなければスタンが言うことをきく必要がない。
 それに、顔を直接見たわけではないが玄関の様子を見るに家には他に家人がいるはず。
 万が一交渉がこじれ、リオンが無体に及ぼうとしたところで、スタンほどの体格の人間が暴れればどれほど家が広かろうと、さすがに様子を見にくるであろう。
 さらにルーティが帰ってくればしめたもの。


 金が絡まなければ常識的な彼女だ。友人であるスタンが困っていると知ったらきっと力になってくれる。
 年下の、それも女性を頼みにするのは気が引けるがもはやなりふり構ってはいられない。
 ここがスタンの人生の一里塚。
 この二年間の忍耐が報われるか否かこれからの説得に掛かっている。


 ――――写真のことを思い出してから五秒にも満たない間にスタンは計算を立てた。
 俯き黙ったままでは何も変わらない。
 スタンは思いきって面を上げた。
 視線がフローリングの床目から、リオンの貌へ。逸らす前と変わらず、リオンの面にたゆたうのは見る者の胸しめつける愁いと艶だが、スタンはもう逃げない。
 決意乗せた眼差しはまっすぐ直線、半人半神の英雄放つ神槍の鋭さ帯びてリオンの眸を捉え、開く唇からはなにが起ころうと揺るがぬ要石のごとき強い言葉が、


「スタン、僕はこれまでのことを反省しているんだ」
「うぇっ!?」


 ……出なかった。


 喉から躍りでたのは説得の言葉どころか絶息する蛙のうめきで。
 意外すぎる言葉にスタンの決意は霞んでぶれて、リオンは今、反省と口にしなかったか?


 あのリオンが。
 スタンの人格をことごとく無視し、奴隷という身分を押しつけおのれは主として君臨し続けた、暴虐の権化が、反省、と――――。


 きっとリオンの辞書には謙虚や反省などという言葉載っていまい、載っていたとしても注釈に「ただしスタンには適用されない」だとか書いてあると思っていたスタンにとっては、天地がひっくり返ってもありえない光景だった。
 先ほどとは違う意味で棒立ちになるスタンの腕を、慈しむように柔く、リオンの繊指が滑る。
「春になればお前は大学生だ。これまでとは違う世界がお前を待っている。いままでのような関係ではじきに破綻がくる」
「リオン……」
 低く沈んだ声はスタンの同情心を呼び起こし、まとわりついては決意を鈍らせる。
 先ほどのスタンのように伏せた面は、いったいどのような痛ましい色に染まっているのか。
 スタンは象牙のように真白いリオンの項を見つめ、その胸中を想った。


「だから、考えた。考えて、考えて……思った」
 するすると腕を指が滑って、手首に、やわく、熱が触れ――――



「今のままじゃ手ぬるい」



 ガシャン。


「ガシャン?」


 腕に触れたは硬い感触。耳に届いたは堅い響き。



「……ガシャン?」
 スタンはもう一度さきほど耳にした音を言葉と発して、出所を探る、馴染みのない腕の重みに俯いたリオンのつむじよりさらに眼差し落とせば、視界に飛びこんだは蛍光灯の明かり冷たく照り返す手錠に縛されたおのが手であり――――。




「なにしてんだ、お前――――!!」




 甲声高々空虚な部屋いっぱいに拡がって、眼前まで持ち上げた、スタンの両の腕を短い鎖で繋ぐ手錠は刑事ドラマで見るようなものとは形を違え、間に渡された鎖は肩幅より少し狭いくらい、手首にはめられた鉄の輪は跡を残さぬようにという配慮か、タオル地に包まっている。


 ――――さて、いかなる手品魔法妖術の類であろう。
 ここは、腕に触れつつもスタンが気取らぬうちに手錠を用意したリオンの手腕を褒めるべきか、逃げる暇気づく隙があったにも関わらずリオンの窈窕たる憂いに当てられまんまと取っ捕まったスタンのとんまを嘲るべきか。


「おいリオンこれどういう……ッ」
 無意味に両腕の戒めをがちゃつかせるスタンの焦り声に、上げたリオンの面は、かわらず見る者のと胸衝く憂愁の翳りがあった。が、しかし、拘束されたスタンの両腕ひっつかんで引きずる、動きには無駄も遠慮も配慮さえもなかった。


 当然スタンは抵抗したのだが、リオンもこの二年間、『証拠』だけでスタンの叛逆を征してきたのではない。つぼはすでに押さえられている。
 両手の自由が利かぬままベッドに投げ出されたスタンは、当然受け身など取れようはずもなく、鼻からべちゃりと布団に叩きつけられた。
 だが柔らかな羽毛布団と適度に弾力の効いたマットはたいして揺れもせず、スタンと追ってベッドに上がったリオンの体をやすやす受けとめる。
 スタンは身を捩ってどうにか起きあがろうとするが、腹の上へ馬乗りになったリオンが重石の役担って、哀れ抵抗はするだけ空しかった。
 体の反抗は封ぜられた。ならばとスタンは罵倒を舌に乗せようとするが、それも先んじて発せられたリオンの決意の前に霞と消える。


「さっきも言っただろう。僕はこれまでのことを反省した。春までもう間がない。お前の無駄な抵抗を一つ一つ潰すのは面白そうだが、気がついたらそんな時間もない」
 花が綻ぶように開かれた唇のあわいから吐かれた言葉は、魂の薄暮を彷徨いつつもしっかりとおのれの行く先見定めた男の強さがあり、拘束具撫でる指先は眠る愛し子の額を滑る母親の慈しみ深きに似て。
 だがリオンの言う反省は、スタンにとって戯言世迷い言、ならばまだしも完全に外宇宙の言語。
 音として聴く分には妙なる調べであるが、そこに意味を見出そうとするとたちまち神経直截ひっかくような耐え難い痛みが裡側から生じ、だがその痛みも次なる暴言の衝撃に微塵と散る。




「……お前に進学をやめろなんて、無茶もいえないしな」
 最大限の譲歩だ。


 ふさりと濃いまつげが影落とす、視線逸らせて物憂げな、リオンの横顔を見つめるスタンは絶句した。


 ……なにを言っているのか、この男。なにが譲歩だ、この男。
「……け……な」


 リオンが無茶無謀を言いだすなどいまに限ったことではないではないか。
 それを今日に限って押しつけがましく、なにを。


「……ふ……けん……」
 神話に出てくる神の多くは傲岸不遜であるが、それでも今日のリオンには一歩譲る。
『写真』の一件もあってかリオンの横暴にはおおく恭順の姿勢をとっていたスタンであったが、さすがに今回は腹に据えかねた。




「――――ふッざけんなああっ!」



 つもりにつもった鬱憤はリオンの一言に理性の結界打ち砕き、視線が纏う瞋恚の炎は相手の魂をも焼きつくさんと燃え盛る。
 むらむらと暗雲のごとく湧きあがる怒りが罵声と変わってた走った。


「なにが無駄な抵抗だ、反省だ! 俺の人生、めちゃくちゃに出来る権利がお前にあんのかあッ!」
 敵は自分の腹の上。両腕は縛されて胸の上。鈍器になりうる荷物は床の上。――――だが武器がまったくないわけではない。


「こンのッ!」 
「ッ!?」


 ばたつかせた脚が運良くベッドから床についた、瞬間、時計の反撥機構じみた速さでスタンの頭が槌となり、リオンの顎を直撃した。
 寝る前の腹筋の習慣がこんなところで役だつとは思わなかった。


 頭突きの勢いは直撃後も落ちることなく、スタンは傾ぐリオンもろとも床に倒れこんだ。
 スタンがベッドだったのと違いリオンの場合は堅いフローリング。
 本来なら打ち身どころではすまないが、スタンが体を横に跳ねて押しつぶすのを回避したためか、リオンが無意識に受け身を取ったためか、惨事にはいたらずスタンはほっと緊張を緩めたが、それも瞬の間。
 二年間積もりに積もった鬱積は、いまだスタンの裡で昏くとぐろを巻く。
 リオンが起き上がるより先に迅速に、スタンは次の行動に移った。


 この程度の衝撃で解けるほど両腕の戒めはやわでなく、だがそんなことはなから期待していない。
 スタンの両腕に嵌っている手錠は、鎖の部分が一般のものより長い。
 仰向けから肘をついて身を起こすのは困難でも、うつぶせなら、腕立て伏せの要領で体を起こすことも、難しいが、不可能ではない。


 ――――形勢は逆転した。


 スタンは倒れたリオンに覆い被さると両腕を顔の横につき、手錠の鎖を相手の首にかけて動きを封じる。
 ほぼベッドの上での態勢を真逆にした状態で、スタンはリオンを睨みつけた。
 見下ろした、リオンの顔は絞殺の危機に苦痛が滲むが、スタンの溜飲は下がらない。

あとがき

スタンの反撃開始。
しっかしこのリオンはひでぇな!(他人事)

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