赤ずきんちゃん気をつけて
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「……これ以上痛い目にあいたくなかったら、例の『写真』を渡せ」
 喉から迸る声は濡れた墓土塗れたかのように重く、これが自分の声かと思うほど、スタンはおのれが考えている以上に鬱積した思いを抱えていたと知る。


「携帯だけじゃない、全部だ。コピーしたもの、バックアップしたもの、一つ残さずよこせ!」
 どうせ抜け目ないリオンのことだ。
『証拠』のデータは携帯に収められたものだけに留まるまい。
 データのひとかけら、一ピクセル、一ビット。すべて消してしまわなければ、これから先枕を高くして眠ることができない。


 スタンはいつまで経っても身動き一つしないリオンの、華奢な首に鎖押しつけ返答を促す。
 本来銀とは魔を退け、浄める聖なる金属である。だがいまリオンの、あえかに香る百合の花支える茎がごとき繊細な首に食いこむ手錠の鎖は、スタンの怒りを吸いこんで禍々しさを増し、内部で膨れあがった興奮の圧に堪えかね、擦れあった金属同士が小さく音を立てる。
 もう少し力を籠めれば、鎖はリオンの首の薄い皮膚を破って、その下の骨すら砕いてしまうだろう。
 いまのスタンにはその危険を冒しかねない激越が、手の中で渦巻いていた。
 しかしこれほどの瞋恚、殺気に晒されながらもリオンの瞳は涙でたわみもせず平穏静かだった――――その面に、変化が現れる。


 変化はスタンにとって予想外の代物だった。息を呑んだ拍子に、喉を拘束する鎖が緩む。
 リオンの面に現れたのは、驚愕でも悲痛でも憤怒でもなかった。



「ああ――――よかった。ずいぶんおとなしいから、なにか患っているのかと思った」



 常日頃見覚えのある、皮肉含んだものではない。
 心の底から愉しくて楽しくて堪らないといったリオンの笑顔は、左巻きの蝸牛のように珍かなものであるが、同時にスタンにとっては身に降りかかる災厄の予告現象でもある。
 スタンは本能的に上半身だけでもリオンから離れ、心臓を守るように両腕を胸の前に掲げた、拘束されている上でできる最大の防御態勢をとった。


 いかにマウントポジションをとっているからと言って、相手はリオンだ。
 どれほど有利であろうと、侮りは身を滅ぼす毒の剣。
 二年間で染みついた屈辱が、スタンの胸中で警鐘を鳴らす。
 スタンの警戒を知ってか知らずか、浮かぶ血で紅唇さらに紅くして、リオンはにやりと笑う。


「それだけ元気があるなら……いいな?」
 続く言葉は、微笑みは、スタンの背中に怖気の筋曳きざわつかせた。
 さっき見せた喜色とは違う、スタンはこの笑みがなにを示すか知っている、『覚えこまされて』いる。


 優位であったはずの体勢も、瞬きの間に不利劣位へ。本能的に引いた腰をするりとリオンの手が、形を確かめるように沿い、コートの下に潜りこんだ、桜貝をはめたように艶やかな爪で腰の窪みを軽く引っかかれ、スタンは悲鳴をあげた。
 スタンは不埒な手を退けようとするが、いかに一般のものより鎖が長かろうが背中に回るほどもない。
 振るう腕はただいたずらに手首を痛めるだけの、その隙をつかれた。


「う、うわあ!」
 起き上がったリオンの片手が逃げるスタンの腰を抱いて、もう片方の手がコートのボタンにかかるのを、スタンは叫声あげて阻む。
 決意敵意はいまだスタンの魂燃やして、けれど二年の間無駄に鋭くなった勘が、この先の展開を察して激越を鎮まらせる。
 そもそも殺意を向けられていたくせに放った第一声が安堵の声、次いで劣情とは、何度も思うがこの男、いったいなにを考えているのか。少なくともスタンの常識の枠内にリオンはいない。



「正気か!? お前、家の人が……ッ」
「そもそもはじまりからして屋外の、いつ人がくるかわからない駅のトイレだったじゃないか。なにをいまさら」
 スタンにとっては思い出せば羞恥が身を焼く苦い記憶を引き合いにした、リオンの表情に呆れが浮かんだのも一瞬のこと。
 すぐまた不吉を裡に秘めた艶冶な微笑に立ち戻って。



「もっとも、いまこの家には僕らしかいないがな」
「……はっ?」
 聞き捨てならないことをのたもうた。



 戦意ひしぐ嘘や諦め促す時間稼ぎだと言うには、リオンの表情は余裕に満ちている。
 反してその目に映る自分の顔ときたら、サンタの存在を否定された子供の物怪顔。から徐々に青く崩れて白く引きつって、



「じょ、冗談だろッ」
「長いこと誰も使わず遊ばせていた物件だが、こんな冗談するためだけには使わない。春からのお前との二人暮らしを想定して最低限準備を進めておいた。だいたい「人は?」と言うが、お前さっきからさんざん叫んで喚いていたが、誰か来たか? 呼びかけがあったか? よく思いだせ」
「い、家の灯り点いてたじゃないか!」
「帰る時間にあわせて灯るよう、タイマーを入れておいた。暖房もおなじだ」
「玄関の靴は!?」
「あれはお前のものだ。スニーカーしか持っていないお前の入学祝いにオーダーメイドのものをプレゼントしようと思って用意したもののうちの一足だ。……いくらなんでも、あんな履き古したので入学式に出るつもりだったのか?」
「……」



 いったいいつの間に足の型を取ったんだだとか、いったい何足プレゼントしてくれるつもりだったんだだとか、訊きたいことは山ほどあるが――――あるが、それはさておいて、もしかしていまの自分はいわゆる『鉄砲構えた猟師の前に現れた狼』――――いやさ、『はらぺこ狼のねぐらに飛びこんだ仔犬』のようなものではないか?


 思いついてしまった喩えが妙に今の状況にマッチしていて、一気に足の下から這い上がってきた危機感で、スタンは耳の奥で自分の血の気が引く音を聞いた。
 それはあたかも、三途の河の流れかと思うぐらい、耳を聾して荒々しい激しい音であった。


「……さて」


 眼下の声にスタンの体が跳ね上がる。
 腿にスタンを乗せたまま、腰に回った手はそのまま、ボタンに掛かる手はスタンに掴まれたまま、顔ごと上向いたリオンの目に、スタンはおのれの腕一本を頼りに渡世を送ってきた博徒の昂然を見る。


「そろそろお前の望んだ取引をしよう」
「とり……ひき?」
 スタンの裡から急激に混乱の波が引く。まじまじ見つめた、リオンの面には冗談を言っているような軽薄な色はない。


「期間は春からの三ヶ月。場所はこの家。ルールは簡単。お前が『証拠』を奪うのを諦めるか、僕がお前を諦めるか」
「……どっちも『諦めなかった』ら?」
「その時は僕の負けでいい。……もっとも、僕は勝ち目のない賭けはしない主義でな」
 春まで時間がないと嘆いたが、自分の縄張り(テリトリー)に引きずりこんでしまえば話は別だ、と嘯くリオンを見下ろす、スタンは胸中算盤をはじく。


 時間がないのはスタンも同じだ。
 春からリオンと逢う時間が少なくなれば、その分『証拠』を取り返す機会が減るというもの。
 言い方態度は気にくわないものの、リオンの提案はスタンにとって渡りに船。
 ようは、これまで通りスタンが折れなければいいだけだ。
 リオンと接する時間は増えるが、しかしこの二年間に比べれば、三ヶ月間なんて流星の速さも同義の――――だが。



「――――その話、嘘じゃないだろうな」



 睨めつける、眼差しの色は疑いと興味の間を振り子のように揺れている。
 ことリオンとの間では、言葉など枯れ葉よりもまだ軽い。信頼など天に仰ぎ見る星よりもまだ遠い。
 これもまた、二年の間に苦い授業料を払って学んだ現実である。
 顔どころか態度、空気に漏れるスタンの懐疑を身に受けて、リオンは心外と言わんばかりに眉間を寄せた。


「どこまでも疑り深いな。なんなら一筆書いてやろうか」
「それだけじゃないぞ、印章と拇印もつけろ」
「……そこまで言われると、さすがに自分の態度を改めたくなるな」
 爪も立たぬほど固い上床のようなリオンの厚顔も、さすがにスタン放つ疑念の矢は弾き返せないと見え、その面には珍しく苦渋が滲む。
 リオンの苦虫噛みつぶしたような顔は、広大な砂漠で一粒の黄金を見つけたよりもスタンを喜ばせ、してやったりと得意の相浮かばせた。


「この二年で学んだんだよ。『物的証拠』はなによりも大事だ、ってな」
「そうか。ぼくのおかげか」
「そうだよ。お前のせいだ」
 言いあい互いに交わす笑み、それは長年のわだかまり氷解した友誼の笑みと言うよりも、腹の底探りあうペテン師同士の猜疑心の突きつけあいと称するが適当な。


 ともあれめでたく――――と言っていいものやら、とにかく仮契約は完了した。
 となれば、後すぐさま処置が必要な問題は、



「――――で、俺はいつまでこんなアクセサリーぶらさげてなきゃいけないんだ?」



 どれほど曇り眼であろうがよく判るように、手首の枷をリオンの眼前に曝す。
 そもそもこの手錠、なんの意味があったのか。
 わざと音立てて見せびらかした、スタンの鎖をリオンはちょいと掴む、
「最近マンネリだから、たまには趣向を変えてみようと思ってな」
 リオンの言ったが早いか、腕と肩に衝撃走って、スタンの天地を逆にした。




 ――――かくて、さっきまでのスタンの努力無に帰して、ふたたび二人の体勢はベッド上と同じに戻る。




 のし掛かるリオンのその面に浮かんだ微笑みの、なんとも得意げな、意地悪げなこと。コートのボタン次々外していく手並の鮮やかなこと、素早いこと!
 たちまち厚いコートの鎧は剥がされ、ネクタイにまで及ぶ魔手を、スタンはどうにか阻もうとする。


「勝負は春からじゃないのかよ!」
「前哨戦だ。付き合え」
 契約違反だ、不履行だと喚くスタンなど歯牙にもかけず、さらり嘯くリオンの、常と同じ氷の花咲く貌に、スタンの頬が雪風曝されたかに引きつる。


「お、お前なあッ」
 一言文句を言ってやろうと、開いた唇は、けれどそれ以上なんの苦言苦情も吐かなかった。
 いまさらだ。ああ、いまさら二言三言スタンがなにか言ったところで、リオンの性根が変わらぬなど、この二年で重々思い知った。
 そしてスタンもこの二年間、似たような状況状態に置かれた時と同じ――――もっとも被害の少ない言動を取る。


「ほんっとお前って……」
 体を縛る緊張空気に溶かして、向ける碧眼呆れで撓め、結んだ唇幽かに弧を描いて、スタンは拘束された手でリオンの頬を包みこむ。



「――――しょうがないな」
 あきらめと呼ぶにはあまりに甘い、赦しの声。
 触れるスタンの手も、触れたリオンの頬も、焼けるように熱かった。







 さて、このあと二人がどうなったのか。
 それはすべて夜の中。
 狼の胃袋のような――――闇の中。

あとがき

長々とお付きあいいただき、ありがとうございました。

あかずきんちゃん「が」気をつけてではなく。
あかずきんちゃん「に」気をつけて、なお話、これにて一旦一区切り。
ラストでやっと「このお話はリオスタです!」と言い切れるものになりました!
……言い切ってもいいよね?

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