赤ずきんちゃん気をつけて
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――――先ほどとは別の意味で呼吸が止まった。 スタンの目の前に広がっていたのは、二階建ての家に相当する高さの壁である。 左右を見ればどこまで続いているのか果ては見えず、視線仰げば壁よりまだ背の高い緑葉樹が冬にもかかわらず豊かな葉を茂らせ、灯りが樹の間を埋めるように点在している。 スタンは一瞬、自分が中世ヨーロッパの城郭にでも迷いこんだのかと見当識を失って、しかし来し方見やれば、背後に続いていたのはきちんと鋪装された現代の道路。それまで歩いていた住宅街の光が遠い。 「なにを暈(ぼ)けているんだ。とっとと来い」 呆然とする意識に刺しこまれる、聞き慣れたリオンの尖り声に我に戻ったスタンは、慌てて城門の向こうへ消えゆくリオンの背中を追う。 道中、リオンが縺れあった糸玉をほぐすよう丁寧に説明するところによれば、この壁内にリオンの住まうマンションがあるという。 敷地内をぐるり壁で囲って、その中に居住棟や公園、はてはコンビニまで完備。内外の行き来には契約した警備会社の目を通さねばならぬ、閉鎖的故に可能な高いセキュリティと敷地の外に出ずとも生活できるのが売りの、海外では割とよく見られる城郭型マンションというやつらしい。 閉鎖的だの壁で囲ってだの、郊外の一軒家で育ったスタンは、リオンの説明にどうにも息苦しい心地して、我知らず制服のネクタイを緩めた。 が、スタン宅の敷地まるまる一筆入りそうなエレベーターホールに通されてネクタイを締め直す。 土足であがるのを躊躇うほどぴかぴかに磨かれた床は、天井の灯りを照りかえしてまばゆく、宵闇に泥んだスタンの目にはグレネード弾の凶悪さ。 入り口からしてこうなのだ。これから待ち構えるリオン宅は、さてどのような豪邸か宮殿はたまた宝物庫か。 どうにも自分の存在が場違いにすぎて、いまのスタンは泥臭く狭い穴蔵から太陽の恩恵著しい南の砂浜に放り出されたもぐらも同じ。 リオン宅の階まで直通だというエレベーターの中、身の置き場をなくして角っこで、縋るように荷物を抱きしめるスタンを見つめるリオンの、紅筆をそっと置いたような唇が繊細にたわむ。 見慣れたスタンでも、と胸衝かれて息呑むほど艶やかな、しかしその柔媚に見える唇から出たのは、愛らしさ一片もない憎たらしいだけの揶揄で。 「ずいぶん緊張してるみたいだな。まるで初夜の花嫁みたいだ」 「……お前、たまに親父臭いこと言うよな」 冗談に、返すスタンの皮肉がいつもより冴えないのは、リオンの指摘がまんざら嘘ではないためだ。 確かにスタンは緊張している。してもおかしくない。 なにせ、もしかしたら今日、二年間スタンを見舞った不幸の元凶――痴漢された証拠の写真――が手に入るかもしれないのだ。 スタンは現在高校三年生。 春になれば、現在通っている学園系列の大学へ進学し、中学三年生のリオンもこのまま高等部に上がる予定だ。 これまで高等部と中等部は隣りあった敷地に建っていたため行き来は比較的楽だったが、これからはそうはいかない。 大学のキャンパスは中高等部と真逆。 自宅から通うのはさほど難ではないため一人暮しの予定もなし。 となれば、大学生と高校生では生活時間のずれが生じ、まだ無理の利いていた今までと違い、突然の呼び出しに応じるのも難しくなる。 正直なところ、これまでの態度を鑑みるに相手はスタンの労苦などまったく無視して、春からもリオンはスタンの主人として君臨し無理難題をふっかけてくるつもりだろうと半ば当然のように、半ば忌々しく諦めていた――――先日の、誘いを受けるまでは。 リオンから例の写真と春からの生活について話がある、と自宅に誘われたのは他校試合での荷物持ちを命じられたその場であった。 誘い言葉が耳に滑りこんだ瞬間の驚きはいまでも覚えている。 なにせこの二年間、リオンが写真のことを持ちだすのは脅迫の場のみと決まっていた。 散々脅しを掛けるだけ掛けたらそれっきり。普段の生活ではいっぺんも話題の俎上に乗せることはなく、さらには今後のこと、なんて建設的意見、リオンの中にあったこと自体信じられない。 だが、春からのすれ違いを考えればこれがラストチャンスだ。 いままでリオンの家にお邪魔するどころかどこにあるのかさえ知らなかったが、二年間交わした会話の端々からリオンは実家住まい、休日には家族も揃っていると聴いた覚えがある。 ルーティにもそれとなく当日の予定を確認したところ、試合が終わればすぐ家に戻るという答だった。 よもや家族と一つ屋根の下でいつものような無体に及びはするまい。 ……自分にしては計算が早かった。 表面上は渋々と、しかし内心は期待に鼓動を速めながら、スタンはリオンの申し出を受けた。 そして現在、リオン宅の玄関前に立つにあたり、スタンの鼓動は誘いを受けた時よりいっそう激しく胸郭を叩いて鳴り止まぬ。 家がある階は、リオン宅以外ドアは見当たらない。 もしかして一つの階まるごと家なのだろうか、と観察する余裕があったのもエレベーターをでたほんの瞬間だけ。 緊張が喉を干あがらせ舌の根膨らませ、スタンはエレベーター内での冗談の一幕を最後に一言も口を開いていない。 それはリオンも同様の、ドアにカードキーかざす指先がもどかしげに震えていた。 以前耳に挟んだ話だと、リオンはスタン以外に友人らしい友人がいないそうだ。 同世代の人間で深く関わりがあるのは、姉と教育係と家政婦ぐらいのもの、と随分寂しい話を聞かされて、「これからはすこし優しくしよう……」と、いたく同情したのを覚えている。 あの話が本当なら、初めて他人を家にあがらせるリオンもまた、スタン同様緊張しているのかもしれない。 (困るよなぁ……) スタンはリオンの小柄な背に向かい、しんなり、眉間にしわを寄せた。 まったく困ったものだ――――こういう人間らしいところを時々見せるから、脅迫者と被害者という関係ながら、スタンはリオンを憎むに憎みきれない。 いっそ常に肝胆寒からしむ挙動の、非道非情な鬼でい続ければこちらもこちらでそれにふさわしい怨熱燃やせるものを、時折見せる気遣いや憐れみはスタンの中にあるおせっかいの血を沸きたたせ、それこそ雨の日捨てられた仔猫を拾う不良でもあるまいに、中途半端な……。 愚痴ともなんともつかぬものを一くさり。曲げた口の中でつぶやいていれば、とん、と肩を弾かれる。 「百面相するな。……開いたぞ、入れ」 「……おじゃましまーす」 考えていたことが考えていたことだけになんとなく気恥ずかしいものがあって、スタンはリオンの視線を避けるようにさっさとばかに大きなドアをくぐった。 どうやら「休日には家族云々」とのスタンの読みは当たっていたようだ。 玄関に続く廊下の灯りはすでに点いており、敲(たた)きにはリオンに合わないサイズの靴が一足揃っている。 女性者の靴がないところを見るとルーティはまだ帰ってきていないらしい。 適度に効いた空調の温もりが、星明り清冽なれど呼吸するだけで肺が霜に凍りつく寒夜を歩き通しだった体にじんわりと染みいる。 来訪の挨拶をしても家のものが出てこないところを見ると、元々出迎えるという習慣がないのか、それとも広すぎて気付いていないだけか。 再度の挨拶にも応えはなく、上がってよいものか否か判別しかね躊躇っていると、先にさっさと靴を脱いだリオン、訝しげに手招くのに、家人がこう言っているのだから……と、スタンも用意されたスリッパに足を入れる。 足早に廊下を行くリオンの背中を追いかけながら、遠慮がちに吐いた三度の挨拶にも、やはり返ってくる声はなかった。 スタンが通されたのはリビングでも客間でも、かといってリオンの自室でもないらしい。 ドアを開けた先にあったのは二十畳はあろうかという広さの洋室で、フローリングは磨きあげられた鏡のように傷一つなく 天井を映し返す。 さらにドアの正面、出窓――硝子の向こうに、マンション住民の憩いの場所らしい、ちょっとした噴水のある中庭を望む――のすぐ側には、部屋の規模に相応しいキングサイズのベッドがでん、と鎮座する。 スタンから見て右手側に備えつけのクローゼットらしき扉が見受けられるが、しかしそれ以外はなにもなし。 テレビにエアコン、机に椅子。部屋の中を左見右見するも、家具と言えばあるのは上記のベッドぐらいのもので、座布団さえも見あたらない。 シンプルを通り越していっそ生活感なんて欠片もない、さてここはいったい何の部屋だ、なぜ自分はこんな所に通された? と首傾げれば、スタンの顔を読んだか、招いたリオン氏答えて曰く、 「ここは春からのお前の部屋だ」 と、こう――――世迷い言をのたもうた。 ――――はていったい自分の耳はいつから壊れたか。耳孔の奥にいるという蝸牛が酔っぱらって戯言でもほざいたか。 背中から掛かる寝言に意味を問おうと振り向いたスタンの目に、飛びこんだのは今まさにドアへ鍵掛けたリオンの姿。 音と言えば自分の呼吸と心音くらいしかない静けさ沈む部屋に、金属噛み合う音は場違いなほど高く天井に響いて消える。 スタンにはなぜかその音が、荘厳な外観を有し「女王の宮殿にして要塞」と謳われながら、その実多くの政敵、王族の血を吸い続けた、呪われし塔にかかる鍵の音に聞こえた。 |
あとがき
なんだかんだいってもスタンは甘い。
爪も脇もリオンにも。