赤ずきんちゃん気をつけて
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(あ、カレー)
 スタンは鼻腔をくすぐる匂いにすん、と鼻を鳴らし顔をあげた。


 透徹な夜の空気に入り混じる雑種な匂いのなかにおいて、ひときわ異彩放つ刺激的な香りが鼻孔を伝い、入りこんだ脳で一つの像を結ぶ。
 幼い頃、給食に並ぶ皿を見ただけで心が鞠のように落ち着きなく弾んだ、そんな思い出と今がシンクロして、沈み気味だったスタンの面に高揚となって表れた。


「なあなあ、カレーの匂い! どこン家だろうなー」
「そんなに鼻を鳴らして……みっともない。お前は犬か」
 他の料理の匂いを押しのけスタンの腹の虫をいたずらに挑発する強烈で芳しいスパイスの香り、その出所を探ろうと好奇心もあらわにあちらの家、こちらの窓と視線を左見右見させる隣で、伴歩きする小柄な後輩はこれみよがしに嘆息した。






 時は夕刻である。冬の日は足が早い。
 すでに太陽は西のねぐらへと去りし後、かわりに君臨するは黒天鵞絨の天蓋で空を覆いつくし、煌々とした灯り落とす月と星。
 だが神秘的に優しい月明りも、粗暴な街灯の前には呑まれ、喰われてしまう。


 なにせ、この一帯は住まう人皆、頭にやたら豪華な肩書き並ぶ高級住宅街。
 真昼とさして変わらぬ光量放つ街灯は、道を照らす以外に防犯の役割も担っているらしい。
 確かに十メートルと置かずずらずらと並ぶ光、そして防犯カメラを目の当たりにすれば、どんな泥棒だってやる気が萎える。
 こと、腹に一物抱えているスタンなど、防犯カメラが視界に映るたび襟を正して神妙な。
 もっともそんな真面目な態度、代わり映えなく続く風景の前には三分と持ちはしないのだが。




「……あのさ、まだかぁ?」
 さきほどまで浮かれ気味だった声音が、うんざり濁りはじめたとしても致し方なし。
 嗅ぐ者魅了するカレーの芳香は時間が経つにつれ、思い出とともに強烈な空腹感をも呼び起こす。


 男の成長期は二十歳までとの俗説通り、高校三年生、いまだ伸び盛り食べ盛りのスタン、いつもならこの時間はとっくに家に帰って家族と共に食卓を囲っている時間である。
 それがなぜ、こんな見知らぬ街。美味そうな匂いの坩堝を彷徨わねばならぬのか。
 おのれの意思でついてきたとは言うものの、駅を出てからずっとあちこちの店、家から流れる夕食の気配に昼からなにも入れていない胃の腑が空腹を訴えしくしく痛む。


 鼻梁にめいっぱい皺寄せて、不平不満を遠慮なく表わすスタンを、横から一対の目が睨めつけた。
 ふっさりと長いまつげが影落とす、目は不機嫌に細まり、飛ばす視線には敵将の頸(くび)討ち貫く征箭(そや)の鋭さがある。
 どうも先ほどから話題が途切れるたび同じ質問を繰り返すスタンに、こちらも苛立ちが募っているよう。


「……もうじきだと言っているだろう。さっきから何度も同じことを訊くな」
「って言ったってさあ……」
 形佳い薄紅の唇から飛びでる、鋼質の棘纏うた美声に、応じるスタンも不信ありありと面に出して、ただしこちらはへの字口。
 下唇突きだし不平漏らす姿は、隣の少年が落ち着いている分、どうにも子供っぽく映る。
 隣を歩く少年よりスタンの方が年かさであるはずだが、表情だけみればいったいどちらが上やら下やら。


「お前だってさっきからもうじきもうじきって……。お前のもうじきってどんだけ長いんだ」
 いまにも舌打ち、罵声飛びそうなほど機嫌を降下させゆく少年を意に介さず、スタンの舌は食べ物の代わりに不満でも乗せなければやってられないとばかりに途切れなく回る。
 対話に潤いの花咲かせる話題の種はとうに尽きていた。あとに残ったのは、砂漠の砂のように無味乾燥な文句ぐらい。
 しかもこういう話に限って、言う本人もうんざりするくらいループして切れるということがない。


「だいたいお前はいいよなあ、手ぶらだし……でも俺は自分のだけじゃなくってお前の分の荷物まで……」
「ああっうるさい五月蝿い」
 さらに不平重ねようとするスタンを言葉と手振り、文字通り蝿でも追い払うように制して、少年が取り出したのは携帯電話。
 特色のない、しいて言うならばすでに世間の流行から外れた型遅れの携帯電話の姿にスタンは瞠目し、顔もあからさまに色をなくした。


 見せびらかすようにフラップを開けたり閉じたり、携帯電話を玩ぶ少年の表情はさきほどまでの不機嫌とはうって変わって、袋小路に追い詰めた哀れな獲物をなぶる猫の愉悦が見え隠れする。


「お前、いつから僕に対して文句を言えるような身分になった?」
 問いの裏側に籠められた『脅迫』に青ざめ首を横に振るスタンへかける声は、嗜虐の悦びに嬉々として揺らいでいる。
 それを忌々しく思いながら逆らうわけにはいかぬおのれの無力さ、浅ましさが悔しさに変わり、二人分の荷物を抱える腕に表れる。
 震えながら、それを誤魔化すように荷物を揺すって抱え直すスタンへ、隣の少年はさも楽しげに鼻を鳴らすと、携帯電話をふたたびポケットに収めた。


 あとはもう無言。互いに無言。ひたすらに無言である。


 さきほどまでの饒舌が嘘のように、スタンの口は貝の口。接着剤でも塗ったように開くことはない。
 雄弁は銀沈黙は金とはけだし名言だが、どんな素晴らしい名言も使うにふさわしい場というものがある。
 少なくとも、いまこの場において沈黙は金などではなく、棘だ。


 二人の間に落ちる沈黙は痛み伴い、ちくちくと気まずさを刺激し、いたたまれなさが満杯に詰まった水風船のごとく胸中圧迫して、スタンはできることならいますぐ荷物も目的もなにもかも放りだして回れ右、少年から離れられるならどこ行きでもいい。駅に戻って電車に飛び乗って、逃げてしまおうかの衝動にかられる。
 だがそんなこと、素振りだけでも見せてみろ。
 この少年は容赦なく、かの携帯電話に記録された『写真』をつかい、スタンの乏しい想像力では及びもつかない恐ろしい辱めをくわえるに違いない。


 スタンは以前命令に逆らった際、見せつけられた『写真』の中味と付随してあたえられた『仕置き』を思い出し、瞬時に頭のてっぺんからつま先まで、すべての血管が沸騰した鉄に替わるほどの、言いようのない羞恥に襲われた。
 なにも往来で『写真』を見せられたわけでも、まして自分達以外の人間が通りかかったわけでもないのについ落ち着きなく視線が方々に飛ぶ。


 その目が、ふいに隣の少年に留まった。


「そう慌てるな。まだ、お前以外にこの『証拠』を見せたことはない」
 スタンの狼狽するさまがお気に召したか。おかしげに口角吊りあげる少年に、スタンの顔は赤くなるやら青くなるやら忙しなく、さながら壊れた信号機のよう。
 少年の前では、スタンの考えなど透明な硝子瓶に詰められているに等しい。
 なにか言い返さねばと思えども、反論など一語一片とも浮かばずに、舌の根は膨れるばかりで、とんと回らぬていたらく。
 結局スタンにできることと言えば、噛んだ唇の隙間から苦鳴の呻き漏らすだけ。
 睨みつける瞳は屈辱からなる悔しさの炎かぎろい、こころなしか映る少年の像にぶれ生じる。


 と、突然ぶれが激しくなった。


 すわ、悔しさのあまりとうとう自分はみっともなく泣きはじめたのかとスタンは慌てたが、なんのことはない。
 少年がスタンの後ろ頭をひっつかんで、強引に自分の顔へと寄せたのだ。


 頬の産毛と産毛がすれるほど、体温を感じるほどの近い距離にスタンは驚き身を捩るが、乙女のごとき繊指のいったいどこにこんな力が備わっているのか。
 少年のか弱い腕はいまや山をも持ち上げる鬼の剛力有して、スタンの抵抗をやすやす封じてしまう。


「スタン、お前は僕の『何』だ?」


 わざわざ屈ませてまで質問を耳に滑りこませる意地の悪さに、スタンは奥歯を噛みしめ沈黙する。
 夜はあらゆる隠し事をその闇の懐に抱え、無粋な好奇の目から守るというが、こんな真昼も同じの明るい街灯の下では、その恩恵には与れそうもない。
 ましていつ人が通りかかるやも知れぬ、そうでなくともすぐ傍に建つ住宅から絶えず人の気配がするこんな往来で口にできる台詞ではないのだ。
 スタンはただうつむき、少年が諦めるのを待った。


 だがそのささやかな反抗も長くは続かない。
「――――はやく答えないと、人が来る」
「……』だ、よ」
 なかなか答えぬことにしびれを切らしたか、頭を掴む手に力が籠められて、スタンは痛みに、渋々喉を開く。
 ほとんど口を開かずぼそぼそと、咥内で消えてしまう答えを聴きとろうとさらに近づけられる少年の、その形佳い耳に向かって、


「俺、は、お前の……『奴隷』だよッ!」


 途切れ途切れの小声、なれど肝心要の部分ははっきり鮮明なその答えに、手を放した少年は――――後輩兼『ご主人様』は、満足そうに微笑んだ。




 すべての始まりはある夏の日。人でごったがえす早朝の電車内でのこと。
 スタンは、荷物を全てスタンに押しつけ、おのれは手ぶらで優雅に隣を歩くこの少年、リオンに――――犯されかけた。




 これが悪戯したのはスタンで、その事実を警察に訴えられたくなければ言うことを聞け、と脅されているというのならまだ話は判る。
 かたや霧深き山間に、人目忍んで気高く咲く百合のごとき美少年。かたやそこそこに長身で、それなりに子供の頃から鍛えられた体の、その辺に幾万といる普通の少年。
 誰がどう見ても、被害者はリオン、加害者はスタンと見るのが人情である。
 ならば完全に自業自得だ。男らしくどんな罰も甘んじて受けいれよう。
 だがおかしなことに現実は全くの逆。
 痴漢の加害者がリオン、スタンは被害者の方だ。
 誰かに助けを求めたところで被虐趣味者の妄想ととられるのがおち、の。


 ……まったく情けなくもあり得ない話である。


 さらに情けないことに脅迫の上に成り立つこの奇妙な主従関係はもう二年近くも続いているのだ。
 おとなしく言うことを聞くふりをして隙をつき、『証拠』を消そうと狙い続けてそろそろ二年。
 この場合、いつまでも隙を見せぬ少年が狡猾なのか。いつまでも目的を果たせぬスタンが間抜けなのか。
 いや、スタンとて荏苒(じんぜん)手をこまねいて、リオンの気が変わるだの、携帯が故障を起こすだのの幸運が転がりこんでくるのを待っていたわけではない。


 最初の頃からことあるごとに、スタンも相手から呼び出しがあればそのつど携帯のデータを消してくれるよう頼んだり、なにか命令されればそれをデータ抹消のための交渉材料としてみたり、さらに唯一優位であろう膂力に物言わせ、痴漢された証拠の残る携帯電話を奪おうとしたりと、努力は続けている。
 抵抗は二年経ったいまも続いており――――逆を言えば、いままでこれほどの涙ぐましい努力が報われたことはただの一度もない、ということだ。


 今日だって、リオンが所属する中等部フェンシング部の他校試合へ荷物持ちにこい、と言うので談判した。抵抗した。反逆した。
 
 ……結果はまあ、言わぬが花。こうして二人分の荷物を抱えてリオン宅への道を揃って歩いているのだから、推して知るべし、の。
 早朝、眠い目をこすりながらどうにか試合が行われる他校へたどり着いたスタンを、高等部の後輩兼友人兼リオンの姉であるルーティは、呆れながら迎えた。
 彼女はリオンと知り合う前からの友人で、スタンの寝穢さを知っている。
 アルバイトと称して時々フェンシング部のマネージャーを務めるルーティ、苦笑交じらせ曰く、


「アンタが早起きするなんて……ほんっと、アンタうちの弟大好きよねー」


 ――――別に好きではない。リオンのことは嫌いではないが好きでもない、一緒にいるのは脅迫されているせいだと、言い返さなかったのは、周囲に人があったためだけではなく、ちょっぴり。
 そう、ほんのちょっぴり――――この二年で、諦めがよくなっただけだ。


(……どのみち情けないことに変わりはないけどな)
 スタンは面を上げ、天を仰いだ。


 ……いつの間にか雨が降ってきていたらしい。


 体のどこも濡れていないのに、瞼の裡にだけ雨が溜まって仰いだ星が歪んで見える。
「……い、……」
 少しでも頤を引けば、瞼の雨はたちまち溢れて抱えた荷物にしみを作ることになるだろう。
「お……タン……」
 別にリオンの荷物がずぶ濡れようが自分の荷物が汚れようがどうでもよいが、その不手際を楯に今度はどんな無理難題をふっかけられるか……。


(剣の稽古、とかなら俺も望むところだけどさあ……)
「……い……スタ……」
(他のはヤだよなあ……たとえばあれ……あの……)
「おい……スタン……」
(エロ……)


「このあほう!」
「づわっ!?」
 とつじょ耳元で落雷が、と思ったら途端足元がふわり浮いて、硬い地面にしたたか腰を打ちつける。


 受け身をとろうにも両手は荷物でふさがっていた上に、漫ろ心な瞬時のこと。
 じんと背骨伝い尻から脳天まで駆け昇る迅雷のごとき痛みで気道が塞がって、スタンはしばらく声もなく悶絶した。


 足を引っかけられ転ばされたのだ、と踵の痛みから判別できたのは肺が再起動して数呼吸後。
 スタンは憤怒の相上げて犯人――リオン――を見るが、相手の表情はといえばこれが有情いっさい廃した氷雪源の冷厳さ。


 本来ならばそんな顔をしていいのは被害者のスタンの方なのに、見下ろすリオンの眼差しは腰から伝わる地面の温度よりもまだ冷たく、いつだってこの無情な眼は、なにもしていないはずのスタンをまるで刑場に引きずりだされた死刑囚の心地にさせる。
 結局文句らしい文句はつけず、唇噤んで立ち上がったスタンに対しリオンは顎をしゃくって前方を指す。


「着いたぞ――――と言っても、まだ入り口だがな」
 荷物の無事を確認したスタンも倣って視線を前に向ければ、そこにあったのは家でなく――――壁であった。

あとがき

全四回を予定。

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