かわらないもの
=4=

 の話が終わった後、跡部は何も言わなかった。
 言うべき言葉が見つからなかった、と言った方がいいか。
 長い長い説明の中で、跡部はこの六年間、なりに悩んでいたことを知った。
 会えない事への切なさ。会う事へのおそれ。忘れられているかも知れないという恐怖。
 これまでの説明の中、そう言った感情が言葉の中からにじみ出ていた。
 跡部は説明の最中、何度かが泣くのではないかと思うことがあった。
 実際、声が震え、真っ黒な瞳が潤み、さらに色を深くする事が説明の最中、幾たびかあった。
 だがは最後まで泣かなかった。
 それどころか、説明の終わった今、の表情は仏のように非常に穏やかだ。
 こちら――跡部とやはり黙ったままの手塚――を見つめる目からは何の感情も窺えない。
 まるで鏡のように、ただこちらを映し返している。
 跡部はの瞳に映る自身を見据えた。
 ――――らしくもなく、戸惑ったような顔をしている。

 ああ、そうだ。

 跡部は思い返す。
 が帰ってきていると知って、初めて感じた感情が「途惑い」だった。
 引っ越してから、ただの一度も連絡を寄こさなかった幼馴染み。
 それどころか、まるで探されるのを厭うかのように居所を眩ませた幼馴染み。
 六年もたった今、ひょっこり自分に何も言わず帰ってきた幼馴染み。
 そして何より――――自分の許可もなくあの日景色から消えた幼馴染み。
 それが、また自分の手の届く場所に戻ってきた。
 途惑いを感じていたのはほんの一瞬だった。
 次に浮かんできたのは――――。
 跡部は、今までただ鏡のようにこちらを映し返しているだけだったの瞳が微妙に歪んでいることに気がついた。
 原因はたぶん、の瞳の中、同じように歪んでいる跡部の表情だろう。
 跡部の表情を歪ませているもの。それは、途惑いの次に感じた、そして今再び跡部を呑み込もうとしている感情。


「馬鹿だろ、てめぇは」


 怒りのためだった。
 沸騰する寸前の湯のように、心が沸々と煮えたぎり始める。
 声も、それに併せて震える。
「ふざけんな!」
 跡部が机を力任せに殴りつけると、は体をびくりと小さく震わせた。こちらを見る目が、わずかに見開かれる。
 瞳には、恐れや怯えと言うより、驚きの方が濃い。
 その中に、微かだが非難の色を見つけたのがきっかけだった。
 マグマのように荒れ狂う心中を言葉に代え、跡部はに向かって吐き出した。
「この六年、行方眩ませてた理由が"怖かったから"だぁ? てめぇの勝手な妄想で怯えて、てめぇの勝手な理由で俺達を無視して、またてめぇの勝手な衝動で戻ってきやがったのかよ! しかもそれを言い訳みてぇにうじうじうじうじ並べ立てやがって」
 跡部の激昂を受け、は目を見開いたまま固まっている。隣で手塚が袖を引き、「止めろ」と小さく囁く。
 だが、跡部は止める気など毛頭ない。袖を引く手塚の手を振り払うと、止めの一撃を吐き出した。


「結局お前はあれなんだろう。自分は傷つきたくないけれど、他人なら傷つけてもいい。そう思ってたんだろう!!」


 裁判官が振り下ろす木槌の音のように、机を殴りつける音が部屋一杯に響き、詰問の終了を告げる。
 手塚は何も言わなかった。も何も言わなかった。
 どちらも跡部の怒りに自我を喪失しているように固まったままだった。
 部屋には、跡部の荒く弾んだ息と秒針が時を刻む音だけが聞こえる。
 跡部は息を整えようと湯飲みを掴み、中身が空であることに気がついて舌打ちをした。
 遠慮なく、手つかずだったの湯飲みをひったくり、中身を一気に飲み干す。
 温いどころか冷たい茶が、渇いた喉を通り抜けてゆく。
 湯飲みを置く音に我に返ったらしい手塚が、非難の視線を向ける。
「跡部、言い過ぎだ」
「何がだ。俺は間違ったことなんかいっちゃいねぇ」
 きつく咎める声を鼻で笑って自分の正当性を主張する。
 そうだ。何も間違ってなどいない。この怒りは、正しく感じるべきものであり、正しく目の前の幼馴染みに向けられるべきものだ。
 確信を表情に出すと手塚の眉根がさらに寄ったが、無視をしての方を向く。
 はまだ、呆然としていた。
 言葉もなく意志もなく、焦点の定まらない目がこちらを"向いている"。こちらを"見ている"わけでは、ない。
 それに少し苛立ちを感じた。

 先ほどとは打って変わって、静かに名を呼んでやる。
 はびくりと肩を震わせた。空白だった瞳に意志が甦ってくる。がやっとこちらを"見た"。
 意志こそ取り戻したが、まだ感情の戻らない瞳を見つめ、跡部は静かに先ほどの主張の続きを口にした。
「お前は――――俺の気持ちなんてどうでもいいんだろう」
 の体が弾かれたように震える。は小さく首を横に振って声もなく否定を表した。
 跡部もまた、首を振りさらにの答えを否定する。
「違わねぇ。でなきゃ、あんなこと言えるわけがねぇ」
 は言った。


 "否定されるのが怖かった" "忘れられるのが怖かった"


 そんなこと、少しでも自分を――――自分ともう一人の幼馴染みを理解しているなら、出てくるはずのない言葉だ。


「お前はそんなに俺が――――俺達が信用できなかったのか?」
 続けられた言葉は、跡部自身も知らぬうちに沈んだ響きとなって口から投げ出された。
 は何か言おうとしたのか、小さく口を開いたが――――結局、何も言わず再び視線を落とした。
 は、本当に自分達が突然の別れに何も感じていなかったなどと本当に思っているのだろうか。
 わずか六年足らずで、それまでの思い出を全て否定できるほど、自分たちは薄情な人間だと思われていたのだろうか。
 がずっと感じていただろう寂寥感を、不安を、自分たちもまた感じていなかったなどと思っていたのだろうか。
 だとしたら、それは重大な"裏切り"だ。
 跡部達は――――少なくとも跡部は信じていた。
 たとえ何年経とうと、もう一度出会えたなら、また昔のようになれると。
 信じてる、なんて恥ずかしい言葉を使う必要もないくらい、当たり前のように、思っていた。
 その気持ちをは勝手な妄想で否定したのだ。これを裏切りと言わずしてなんと言おう。
 だから、さっきの責めは当然受け入れられるべきものなのだ。むしろあれぐらいですんで感謝して欲しいくらいだ。
 子々孫々未来永劫、この菩薩のごとき寛大さを崇め奉るがいい。
 言いたいことを言って多少(本当に、小指の爪の先ほど)すっきりした跡部は、ふんぞり返って、
「で?」
 と、言った。
 自分に向けられたのだと理解できていないらしいに向かって、もう一度「で?」と問う。
「お前は結局どうしたいんだ」
 帰りたかった町に帰ってきた。
 会いたかった(でも会いたくなかったと言う台詞は脳内で抹消する)幼馴染みに二人も会えた。
 さて――――この次はどうするつもりだと跡部は訊いた。
 は躊躇いがちに視線を外し、何か考えていたようだが、そのうちおずおずと顔を上げると、
「一日、こっちに泊まって、また……母さんの所にもど」

 跡部は言葉を遮る。
「嘘。言ったって、俺にはすぐに分かるぞ」
 の顔が一気に青ざめた。無実を主張する囚人のように、机に身を乗り出し叫ぶ。
「わ、私は嘘なんて言ってない! そんな、嘘、なんて……ッ!」
 信じて欲しい。必死の視線が、跡部と手塚に訴えかける。
 だが、跡部はの渾身の訴えを鼻で笑って一蹴する。
「そんな図星刺されて青ざめた顔で言われた台詞、誰が信じるかよ。だいたいなんだ、さっきから"母さん"、"母さん"って。お前の母親はお前に世話されなきゃ生活できないような赤ん坊なのか?」
「似たようなもんだ、あの家庭内限定無能っぷりは!」
 力説するに、跡部はすこし驚いた。
 の母とは数える程度しか会ったことはないが、記憶の中にある姿はの言う"無能"という言葉からは離れた存在のように思えたからだ。
 あるいは、の母が相当本性を隠すのに長けているのか。
 まぁ、どちらでもいい。
 落ち着きを取り戻して席に戻るに、跡部は鼻を鳴らして言った。
「とりあえず、お前の"建前"は分かった」
「建前なんかじゃない」
 真剣な表情でこちらを見つめる。だが、見つめる瞳にははどこか揺らぎがあった。
 少なくとも、の言うことが全て真実とは思えない。
「何度でも言うが、私は母さんの元へ戻る。これは本心だ」
「――――なら、もう一つの"本心"も聞かせて貰おうか」
 突然予期せぬ方向から声が聞こえた。
 何事かと跡部は隣を見る。声の主は、これまでとの問答の間、ずっと観客でいた手塚だった。
 存在を忘れていたわけではないだろうが、手塚の発言はにとっても予想外のものだったらしい。同じように手塚を見つめるの目は、幽霊でも見たかのように見開かれている。
 手塚は二人分の視線を受けても、平時と変わらぬ表情で、を見ている。
 視線が、先ほどの質問の答えを促しているようであった。
「お前が母親を心配する気持ちは、もちろん本物だろう。だが、俺にはもう一つ、本心があるように見えてならない」
 それを言え、と手塚は言外に匂わせる。
 無言の問いを感じ取ったのだろう。は口を何度も金魚のように開閉させるが、そこから言葉が出ることはない。
 手塚はただ、静かに待っている。を見つめる視線には、責めも期待もない。
 ただ、"待っている"だけだ。

 ――――もしかしたら、これは手塚の賭けなのだろうか。

 跡部は手塚の横顔を見て、思った。
 は何も、自分達を嫌ってこの六年間、行方を暗ませていたわけではないらしい。
 これまでの話から、が自分たちに対していまだ執着を持っていることが分かる。
 の心は今、執着する自分たちと、母親との間で揺れている。
 ならば、その"執着心"をもう一度強く呼び起こすことが出来たなら?
 母親へ傾いたの心の天秤を、こちらに引き戻すことが出来るかも知れない。
(……乗っかる価値はある、か)
 薄く笑いを浮かべた口元を巧妙に手で隠し、跡部は戸惑った表情を浮かべたまま固まるに視線を向けた。

 静かに名を呼んだ声は、自分でも驚くくらい優しいものだった。

あとがき

トラップ カ ー ド 発 動 !
お次のラストターンは主人公。

/戻る/