かわらないもの
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「お前は、本当にここにいるのが嫌なのか。二度と会うのが嫌なくらい、俺たちが嫌いなのか」 跡部が言う。眉根を寄せた表情は、痛みを堪えているかのように苦しそうなものだった。こんな顔をするなんて、知らなかった。 させているのは、自分だと思うと、こっちまで辛くなる。 罵倒くらいなら覚悟はしていたが、まさか悲哀なんてもの見せられるとは思っても見なかった。 違う。こんな顔が見たくて、自分は帰ってきたのではない。 は首を横に振って否定を示すが、跡部は傷ついた表情のまま、そっとから視線を外した。 「お前の話を聞いてると、俺にはそう思えてしょうがねぇ」 そうじゃない。そんなわけがない。 否定したいのに声が出ない。 助けを求めるように手塚を見るが、ただ静かに視線を返されるだけだ。 瞳に責める色がないのが、余計にを苛む。 壁に掛けられた時計の音が、嫌に耳についた。 あの跡部に。傲岸不遜が服を着て歩いているかのような跡部に、こんな迷子の子供のような心許ない表情をさせている。 心臓が無数の針で刺されているかのように痛んだ。 初めのうちはまだ無視できる痛みだったものが、無言の時間が長くなるにつれ、我慢できぬほどになっていった。 膝の上で握りしめた手のひらが、汗でぬめる。 跡部の辛そうな表情を見たくなくて視線をそらせようとするが、まるで磁力でも働いているかのように跡部の伏せた顔から目が離れない。 居間の中に、罪悪感と時間だけが積み重なってゆく。 胸の痛みに苛まれ混乱するに、とうとう跡部がとどめの一言を吐いた。 「俺たちの存在は、お前にとってよっぽどお荷物だったらしいな」 「そんなはずない!」 ――――堪えられなくなった。 溜まらず叫んだ声が、部屋いっぱいに響いて木霊する。 響く声は、自分を守る理性の壁が瓦解する音のようにも聞こえた。 「違う。違うんだ……」 うわごとのように幾度も否を繰り返す。 「何が違うんだ」 跡部が促す。 上げられた跡部の顔は、どこか咎を許す聖女のようにすらには見えた。優しい声は、告発を導くには十分の力を持っていた。 今度こそ、本当に感情が決壊する ごまかし続けた感情が。隠し通さなければ思いが。言ってはならないもう一つの本音が。 零れて。 溢れて。 ――――曝け出される。 「私は、ここに、いたい――――ッ!」 心の底から叫んだ声は、口から外に出ると小さく擦れてしまった。 声が零れると、もう駄目だった。 本当は家で跡部に会ったときから押さえ込んでいた涙が、ぼろぼろと頬を汚す。 みっともなく、まるで赤ん坊のようにしゃっくり上げながら続ける。 本当は、覚えていてくれて、嬉しかった。本当は、子供の頃のように抱きついてしまいたかった。本当は、心の保身のために二人を切り捨てようとした自分の醜さを知られたくなかった。 本当は――――本当は――――。 「本当は、もう一度君たちと一緒にいたいんだ……」 母親が心配なのも嘘ではないけれど。けれど、手塚が言っていた"もう一つの本音"を彼らに伝えたかった。 涙で歪んだ本音が、跡部達に届いたかどうかは分からない。 けれど言いたかった。 他でもない、大切な、大事な二人だからこそ伝えたかった。 「本当……っ、なんだよ……ぅっ」 あふれ出る涙のせいか、呼吸すらままならない。 大きく鼻をすすり上げ、気道を確保しようとしたの耳に、声が滑り込んだ。 「なら、いればいいだろう」 するん、と。 本当に軽い調子でするんと耳に飛び込んだ言葉に、涙が止まる。 止まってなお視界を歪ませる涙を袖で乱暴にふくと、クリアになった目に腕を組んでふんぞり返る跡部の姿が映った。 「……え゛?」 間抜けな声を上げた拍子に鼻水がずるりと垂れる。は慌ててそれを近くにあったティッシュでかんだ。 もう一度、まじまじと見た跡部の姿は、が幼い頃からよく知っている"王様俺様どちら様? "な跡部であった。 突然の事態について行けず助けを求めては手塚を見る。 手塚は何とも言えない表情で見つめ返すだけ。 ただ視線には、何となく声にならない声が込められているようであった。 たぶん言いたいのは、こういうことだろう。 ――――ご愁傷様。 「詐欺か――――ッ!!」 心の底から叫んだ声は、さっきと違い部屋の中によく反響した。 は手塚の無言の答えから全てを悟った。 かつて、似たようなことをされたことがあるなぁと微笑ましくない思い出も一緒に甦る。 もっとも、これほど弱気な姿を見たのは本当に今回が初めてであったが。 は頭を抱えて机に突っ伏した。 騙された。全身全霊かけて騙された。 気分は「病を患う子供のために薬代がいるんです」と金を騙り取られた薄給サラリーマンだ。 「そうか、病気の子供はいないのか」なんて思えるほど、は人格者ではない。 は面を上げると、まだ鼻水の為不鮮明な声で、目の前の暴君に向かい吠えた。 「返せ、戻せ、私の涙と良心! それが駄目なら地球の裏側まで続く穴を掘ってくれ! 今すぐ飛び込んでブラジルつく前にマントルに到達して焼死してやる――――ッ!!」 「ずいぶん壮大な自殺だな」 取り乱すを鼻で笑う跡部。 さっきまでのしおらしい様子は微塵も見受けられない。 今はただひたすらに、小憎たらしいだけだ。 はその様に、奥歯も砕けよとばかりに歯ぎしりした。 やはり、六年という年月は人を変える。 跡部は、昔より芝居が上手くなっていた。 あるいは、跡部の芝居を見抜けないほど、が耄碌したかのどちらかだ。 「――――帰る」 「どこへ」 湯飲みを蹴倒し立ち上がったに跡部が問う。 は畳を踏む音も荒々しくドアへ向かいながら振り返りもせず、 「決まっているだろう。母さんの所へだ」 「戻れるのか?」 跡部の言葉に、はドアノブを捻りかけた手を止めた。 聞き逃そうにも逃せない力のある言葉だった。 「いまさら母親の所になんか戻れるのかよ」 「そんな事ッ!」 揶揄する言葉に怒りの表情で振り返ったが見たものは、試すように笑う跡部の姿だった。 子供の頃からよく見ている表情の一つだ。 どこか楽しげに細められた目に見つめられ、はぐっと息を詰めた。 「誘導があったにせよ何にせよ、お前はもう自分の本心を認めちまった」 今更それを否定できるのか? さらに目を細めて跡部は笑う。は何も言えない。 跡部の言ったことは、事実だったからだ。 さっき言った「ここにいたい」と言うのは、掛け値無しの本気だった。 だからこそ、いまさら覆せない。覆すには、あまりにも強く心に根付いてしまった。 強く。強く。母と共にいるという、重い決意を揺るがせてしまうほどに、強く。 母の元へ戻るため、全てを振り払い、部屋を出なければならないのに足が全く動かない。 戻らなければと言う思いがドアノブを握りしめ、戻りたくないという思いが足を固まらせる。 ドアノブを握ったまま微動だにしないに、跡部はさらに追い打ちをかけた。 「子離れさせるには、ちょうどいい機会だ。それに」 「お前の帰る場所は、ここだろう」 ――――続く手塚の言葉が止めだった。 頭をハンマーで殴られたような衝撃が全身に走った。 人のセリフを取りやがってとぼやく跡部の言葉も耳に入らない。 は握ったままのドアノブを捻り、大きく扉を開いた。 「!」 跡部が叫ぶ声を後ろに聞きながら、は廊下に飛び出す。 追いかけるような跡部の声に、は前を向いたまま、 「母さんに――――ッ! 母さんに、ここにいてもいいのか電話してくる!」 叫び、電話に向かってひた走る。 元々走らなくても済むくらい廊下は短いから、電話の場所にはすぐついた。だが、すぐにはかけない。 は昔懐かしい黒電話の受話器を握りしめたまま、その場に蹲った。 受話器を持つ手が震える。 噛みしめた唇から、嗚咽が漏れた。 どうして自分はこうも身勝手なのだろう。 心配だからと母を選んだくせに、今さら一緒にいたいからと言うわがままで幼馴染み達を選ぼうとしている。 母には呆れられるかも知れない。怒られるかも知れない。失望されるかも知れない。 けれど。 「ここに――――いたい」 改めて口に出し、再確認した願いを叶えるために、は電話のダイアルに向かって手を伸ばした――――。 |
あとがき
と、言うわけで。 結局主人公は手塚達の所へ戻ることになりました。 はじめはタイトルと同名曲のイメージで書き始めたのに、脱線を続けこんな結末になってしまいました。 なんでだー。 |