かわらないもの
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――――あまりよく知られていない話だが、跡部と手塚は幼い頃から顔見知りである。 いや、顔見知りどころではない。互いの家を行き来し、時には寝泊まりさえする仲だった。 知り合うきっかけは互いの祖父。 彼らが友人同士であったことが、跡部と手塚を結びつけた。 祖父同士の結びつきはもう一つあった。 それが跡部の言っていた"あいつ"――――「」 もう一人の幼馴染みにして、六年前手塚達の前から姿を消した少女である。 思えば幼い頃、記憶のどこかには必ずこの少女がいた。 特別目だった存在ではない。 飛び抜けて人目を引くような容姿ではなかったし、何か秀でた特技があったわけでもない。 ただ時折こちらが思いもかけない行動を起こし、そしてそれに手塚達を巻き込んだ。 よく楽しみ、よく悲しみ、先の行動が読みづらくて、甘えたで、一度言い出したら聞かない頑固者で、自分の思いには過ぎるほど正直で。 特に、掛け値も打算も偽りもなく、ただひたすらまっすぐ向けてくる好意には、何度途惑いと喜びを覚えたことだろう。 ずっと一緒にいるのだと信じていた。何の疑いもなく、日々は続いてゆくものと思いこんでいた。 三人でいる。それこそが、当たり前だったあの頃。 しかしその当たり前はある日たやすく瓦解した。 ――――の、引っ越しという出来事によって。 たそがれ――――夜でもなく、昼でもない。真昼の黄金と夕刻の茜と夜の藍が入り交じる時間帯。 手塚と跡部はひたすら待っていた。 ここは待ち人、の家。 全体の造りは純和風ながら、なぜか廊下側に面した出入り口はドア、もう一方の庭側の廊下に続く出入り口は障子という不可思議な構造の居間で、跡部達は二人並んで待っていた。 二人の前にはやたらでかい坐卓があり、その上にはの父から出された茶と菓子が置かれていたが、お互い茶にすら手をつけていない。 二人の顔は不機嫌そのものだった。 頬杖をついた跡部は、さっきから苛立たしげに指で机を叩きつづけている。 手塚も、表面上はいつもと変わりなく見えるが、時折廊下側のドアを親の敵でも見るかのように睨み付けている。 部屋の中には殺気とも何ともつかない重苦しい空気が充満していて、下手をすれば溺死してしまいそうだ。 散歩に行っただけだからすぐに帰ると、部屋にあげてくれたの父は言っていた。 だが、その話を聞いてからもうどれぐらいたっただろう。 そろそろ柱につけられた鳩時計の長針が一周してしまう。 窒息しそうな空気の中で、手塚は口を開かなかった。元々無駄口を叩く性分ではない。 跡部の方も、机を小突くのに夢中で一言も喋らない。 八畳ほどの部屋に、ただ時と跡部が机を小突く音と気の弱いものならば泣き出してしまいそうな緊張感だけが重なってゆく。 時計の長針はとうとう一周してしまった。文字盤の上に取り付けられた扉から、鳩が弱々しく飛び出す。 同時に、跡部がキツツキのまねごとを止めた。 「跡部」 何事かと声を掛ける手塚を目で制する跡部。厳しい視線がドアを射抜いている。 手塚は思わず息を詰めた。その耳に、微かな声が届く。 「――――」 手塚は静かに立ち上がると、なるべく足音を立てぬよう庭側の廊下から外に出た。この家の構造はもう頭にたたき込んでいる。 庭を通り、離れに続く飛び石を踏み越え、玄関とは反対側の勝手口に到着する。 すると、到着したと同時に家の中から物音がし始めた。 ドタバタと複数の足音が近づいてくる。 足音の合間には、跡部の声が紛れ込んでいた。 手塚は近づいてくる足音に腰を低く落として身構える。 瞬間。 けたたましい音と共に勝手口のドアが開かれ、そこから弾丸のように何かが飛び出してきた。 勢いよく飛び出した"何か"を手塚は体全体で受け止めると、さらには逃げられないように両腕を回して拘束する。 手塚の体よりも一回り以上小さな体が腕の中で暴れ藻掻くが、力の差、体格の差はいかんともし難い。 「よくやった、手塚」 勝手口から顔を覗かせた跡部が、尊大に労いの言葉を掛けた。手塚は言葉で返事せずに、ただ目線だけで労いを返す。 腕の中の固まりはまだ諦めずに暴れて続けている。 諦めの悪さに少々呆れつつ、手塚は藻掻く固まりの耳元に唇を寄せると、 「――――」 小さく名前をささやく。 呼ばれた瞬間、腕の中の固まりが暴れるのを止め、勢いよく顔を上げる。 視線がかち合った。 腕の中に、平々凡々を立体化したかのような少女がいる。 こちらを見つめる、こぼれ落ちそうなほど大きく見開かれた黒い瞳に、手塚の顔が映り込む。 瞬間、六年前と現在が重なった。 あぁ……、と手塚は心の中で嘆息する。 この目だ。まっすぐで歪みのない、水晶のように透明な視線。瞳に映る視線が六年前の記憶と全く変わらぬ事に、手塚は軽い感動さえ覚えていた。 手塚は少女を抱きしめる手に、気づかれない程度力を込めた。 「――――いつまで見つめ合ってんだ、あぁん?」 不機嫌そうな声が懐かしさに浸っていた手塚の耳に滑り込む。 声を聞いた瞬間、腕の中の少女が大きく肩を振るわせた。そしておそるおそると言った様子で振り向く。 目があったのだろう。跡部は口角をつり上げると、 「久しぶりじゃねぇか、。オレ様から逃げるなんざ、この六年でずいぶん生意気に磨きがかかったなぁ」 さも意地悪そうに、そしてさも楽しげに笑った。 再び場所は変わり、家の居間。 先ほどと同じように並んで座った手塚と跡部の前に、坐卓を挟んで今はがいる。 その顔色は、長年離ればなれだった幼馴染みと感動の再会を果たした直後とは思えないほど悪い。 どちらかと言えば、死刑宣告か無期懲役かの判決を待つ罪人と言った様子だ。 先ほどの手塚達と同じく、俯いたまま茶菓子はおろか茶にすら手をつけていない。 空気の重苦しさは、跡部と二人で待っていたときよりも重い。さっきは二人がかりでだったが、今は一人で先ほどの倍の重苦しさを醸し出している。 手塚は手持ちぶさたになって、茶をすする。すっかりぬるくなった茶は、この不毛なお見合いが長時間続けられているという証拠だ。 跡部は、隣で遠慮もなしに茶菓子を頬張っていた。 バリバリとせんべいを噛み砕く音だけが居間に響く。 盆の中に山と積まれていたはずの海苔せんべいは、もう半分も跡部の胃の中に消えた。 跡部が湯飲みに残った茶を一気に飲み干す。 「――――」 ため息をついて空の湯飲みを静かに坐卓に置いた跡部が、幼馴染みの名を呼ぶ。 瞬間、の肩が跳ね上がった。 顔からさらに血の気が引いてゆく。視線はやはり、下を向いたままだ。 「てめぇ、何で逃げた」 冷たい視線がを射抜く。抑揚のない声が、逆に感情を抑え込んでいるのだろうと想像させる。 手塚は跡部の横顔に、射る寸前の弓の姿を見た。 感情という弦を、目一杯張り詰めた状態。一度に解き放たれたときが恐ろしい。 跡部から発せられるぴりぴりした怒気を肌で感じているはずなのだが、はやはり答えなかった。 何も言わない。何も見ない。何も返さない。 ひたすら沈黙を守り続けるの姿に、手塚は少々歯がゆさを感じ始めていた。 そして、同時に脅える姿に対し哀れみも感じていた。 「」 手塚はなるべく優しく声をかけてみた。出てきた声は、いつものように無感情なものだったが、根底に潜むものを感じ取ったのだろう。 が、はっとしたように俯けていた顔を手塚に向ける。 「俺達は、お前を責めている訳じゃない。ただ、理由が知りたいだけだ」 知りたいことは山とあるが、今は何よりも、 なぜ逃げたのか。なぜ六年も音信不通だったのか。――――なぜそんなに怯えているのか。 知りたかった。の口から、直接訳を聞きたかった。 真摯な想いを視線に込めてを見つめる。固まったまま、ただじっと視線を受け止めていたの表情が、しばらくしてから、ぐしゃりと泣き出しそうに歪んだ。 「だって……怖いじゃないか……」 久しぶりに――――そして、今日初めて聞いた幼馴染みの声は、何かを堪えるかのように震えていた。 短い言葉の先を促すかのように口を開きかけた跡部を視線だけで制し、手塚は次の言葉を待つ。 何度もつばを飲み込んでから、は再び、 「怖かったんだよ……」 と繰り返した。 |
あとがき
やっと話が動き出す。 次は主人公のターン。 |