かわらないもの
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思いかえせばあの頃、景色のどこかには必ず一人の少女がいた。 いつからなんてわからない。 なにせ、ほとんど自我というものを持つ前から共にあったからだ。 少女は特別目立った存在ではなかった。 日本人によくある、黒い髪に、黒い瞳。 景色の一部に埋没してしまいそうな容姿だったが、たとえ彼女が人混みに紛れ込んだって簡単に見つけ出してみせただろう。 どこにだっている、けれど、ここにしかいない少女。 そこにいるのが当たり前すぎて、何も疑問などわかなかった。 となりにいる。ここにいる。ずっといる。 幼心に信じていた。この景色はいつまでも変わらないものだと。 今日も、明日も、明後日も。 どれほど季節が巡ろうと、どれだけ自分たちが大きくなろうと、瞳が移す景色には必ず少女がいる。 それは確信だった。それは当然だった。それが日常だった。 緩やかに重ねた年月はもはや揺るがぬ常識となって心の中に根付く。 傍らには少女がいる。それこそが日常。 けれどその絶対は、ある日簡単に打ち崩された。 あまりにも突然訪れた別離。 現実を事実と受け入れる心構えも出来ぬうちに、少女は去っていった。 少女自身も、何が起こったのか分かっていなかったのかも知れない。 お互い涙を流すこともなく、言葉を掛けるでもなく、ただひたすら静かに別れの時を待つ。 それは、傍目から見れば奇妙な光景に映ったことだろう。 結局、別れの言葉も再会の約束も言い交わすことなく少女は景色から消えた。 ――――春近いあの日。 気の早い桜吹雪が視界を埋め尽くす中、"自分たち"は初めての喪失感にただ呆然と立ちつくすしかなかった。 場所は青春学園。 時は夕暮れも終わりかけようとしている頃、もはや学園内に残っている者は職員か運動部の生徒くらいしかいない時間帯。 人気の全くない校門前に、一台の自動車がとまった。 テレビCMでよく見かける何の変哲もないワゴン車である。 街を歩けば二、三台は見かける車だが、夕日を受けて輝くボディはラインナップにない漆黒。窓には目隠し用のスモークフィルムが張られていて、全体的に漂う空気がどことなく胡散臭い。 運転席から降りてきた人物もまた、ワゴン車に似つかわしくない雰囲気の老人だった。 丁寧に後ろに撫でつけられた髪は、銀に近い白髪。 鼻の下に蓄えられ、綺麗に切りそろえられた髭もまた白い。 肌の色は浅黒く健康的な生気に満ちているが、顔全体に年輪のような皺が走っている。 鶴のような痩身を仕立ての良いスーツに包ませた姿からは、紳士とはかくあれと言った気迫のようなものを感じる。 そのくせ、奥に引っ込みがちのタレ目は絶えず優しい彩を宿していた。 老人は運転席を降りたその足で、すぐさま後部座席へ回った。 そして恭しくドアに手を掛ける。 「お待たせいたしました。青春学園につきましてございます」 「ご苦労」 滑らせたドアから一人の少年が顔を出す。 尊大不遜を全身から滲ませた少年は、迷うことなく青春学園の敷地内へ足を踏み入れた。 オレンジに染まるテニスコートでは、練習を終えた部員達が後片付けをしている最中であった。 玉を拾い集める者。コートにローラーをかける者。ゴミを纏める者。 様々に仕事をこなす部員達の中で、数名の部員――レギュラー陣――は車座になって副部長である大石の言葉に耳を傾けていた。 「と、言うわけで、明日の早朝練習には絶対遅れないこと! 特に、越前」 名指しされたレギュラー唯一の一年生が、眠そうな顔で眉だけをぴくりと動かす。 大石はその姿に眉を下げながら、 「もうちょっと、余裕持ってこような。朝から練習に参加できず、グラウンド走らされるだけなんていやだろう?」 苦笑混じりの諭しに越前はただ被っていた帽子を深く被り直し、大石の視線から逃れようとする。 後ろから桃城が頭を小突いてからかいの言葉を投げるが、大石の「桃も、だよ」という言葉にばつが悪そうな顔で外方を向く。 大石達のやりとりを聞いていたレギュラー陣の間から、ささやかな笑い声が零れた。 しかしたった一人。部長の手塚だけは笑いの輪に加わらなかった。 生真面目が服を着て歩いているような手塚は、たとえ祝賀会のさなかであろうと表情を緩めることはない。 いわんや今は終わりかけとは言え部活中。手塚はただじっとまるで何十年もそこにあるかのように直立不動で話が終わるのを待っている。 やがてさざ波のような笑いも消え、ふたたび大石が連絡事項について口を開きかけた、その時。 「おい」 重みのある声が、夕空の下に響く。 コートの中に何者かが入ってきた。 夕日をバックに現れた侵入者は、周囲の驚きと好奇の視線などものともせず、まっすぐレギュラー陣の元へ足を運ぶ。 何の迷いも無いその姿からは、手塚とはまた違った威厳というものを感じさせた。 侵入者からあふれ出る威光に圧倒されたのか、思わずぶつかりそうになった河村が道を譲る。 それを合図に、まるで海が割れるかのごとくレギュラー陣達は次々道を空ける。 侵入者の足が、ぴたりと一人の少年の前で止まった。 周囲がざわめきに揺れる中、あたかも山のようにぴくりとも動かず少年――――手塚は侵入者と対峙する。 「よぉ、手塚」 「何のようだ、跡部」 侵入者の正体。それは、氷帝学園テニス部に君臨する"王"、跡部景吾だった。 手塚は突然訪れた跡部に驚くこともなく、ただ淡々と視線に非難だけを込めて相手を睨み付ける。 「今は部活動の最中だ。部外者は出ていってもらおう」 ストレートに退散を促す手塚に対し、跡部はからかうような笑みを浮かべ、 「もうほとんど終わりかけだろうが。少しぐらい大目に見ろ」 「だめだ」 跡部の言葉に、間髪入れぬ手塚の返答。 それは、言外にこれ以上話すことはないという意思の表れでもあった。 その証拠に手塚はそれ以上跡部の方を振り返ることもなく、レギュラー陣に向かう。 大石を筆頭に、その場にいた皆が戸惑うように跡部と手塚の顔を見比べていた。 完全に拒絶の姿勢をとる手塚に対し、跡部の方はと言うと、浮かべていた笑みをさらに深くし、言葉を続ける。 「てめぇは本当に融通がきかねぇなぁ。言っておくが、俺の話を聞かないと後悔するのはお前だぞ」 挑発するような言葉にも手塚は応じない。 その姿を見た跡部の表情から、笑みが消えた。 代わりに現れたのは無。 冷えた金属を思わせる声音で、跡部は呟いた。 「あいつが帰ってきた」 ――――跡部の告げた一言はけして大きくはなかった。 だが、その小さな一言に対して、手塚は明らかな反応を見せた。 今までレギュラー陣の方を向いていた視線を跡部に向け直す。眉が、戸惑っているかのように顰められている。 跡部はさらに続ける。 「今思い浮かべただろう。あいつ、だ。うちの執事が、家の近くで見たそうだ」 手塚が小さく「まさか……」と呟く。眉間の皺がますます深くなった。 「見間違いだと思うだろう」 信じ切れない様子の手塚を跡部は鼻で笑うと、 「俺だってそう思った。六年も音信不通だったんだから、姿形だって変わってるはずだ。けど……」 跡部はそこで言葉を切り、小さく吐息をつく。そして再び、手塚をまっすぐ見つめると、 「あいつの実家に確認した。間違いなかった。――――あの馬鹿、帰ってきてやがった」 最後に視線をそらし、さらに舌打ちをして、跡部は言葉を終える。 手塚は何も言わなかった。ただ何か迷っているかのように視線をそらせ、口元を手のひらで覆う。 表情からは、苦渋のようなものが見て取れた。 取り残されたレギュラー陣も、二人を取り囲む空気に気圧されたかのように皆黙り込んでいる。 誰も何も言い出せぬまま、時間だけが過ぎてゆく。 ――――不自然な沈黙はどれほど続いただろう。 真っ先に泥のような重い空気に穴を空けたのは、それまで一番重苦しい様子で黙り込んでいたはずの手塚だった。 「五分だ」 手塚の言葉に、今まで目をそらせていた跡部が視線を向ける。 手塚は、何かを決意したかのような目で、跡部の視線を受け止めた。 「五分でミーティングを終える。待っていろ」 「――――ハッ、いいぜ」 手塚の提案に跡部が、小さく笑う。 そしてそのまま踵を返すと、 「だが時間は三分までだ。それ以上は待たねぇ」 捨て台詞を吐き、来たときと同じようにレギュラー陣をかき分け去ってゆく。 突然の侵入者。突然の対峙。突然の退場。 嵐と言うにはあまりに静かな跡部の奇襲に、テニス部員達は何をどうしていいのかあっけにとられている。 そんな中、 「大石、話の続きを」 ミーティングの続きを促す、この不自然な沈黙のもう一人の演出者である手塚だけが、憎らしいほどにいつも通りだった。 |
あとがき
幼馴染みは手塚&跡部。 記念すべき第一話だというのに、主人公が登場しません。 これ、ドリーム小説じゃないだろう。 |