Welcome To Hard Luck!

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 書類の詰まった棚や事務デスクの並ぶ事務所然とした薄暗い部屋の中、手にしたダイアにデスクスタンドの灯りを弾かせながら、男は愉悦の笑みを浮かべた。
 ダイアからそらせた視線の先には宝石の海。
 各国から集められた様々な種類の宝石がマホガニーのデスクの上に広げられ、窓から差し込むわずかな朝日に目映いほど煌めいているが、そのいずれも今男が手にしている宝石ほど美しいものはなかった。






 黄昏時にほんの一瞬現れる空の色を捕らえたかのようなアメジストの神秘的な紫紺も、燃えさかる炎を閉じ込めたようなルビーの赤も、深い深い海の底を切り取ったかのごときサファイアの青も、果ては光の加減、見る角度によって無限に表情を変える水晶の透明さも、みんなこの漆黒の前には霞み、単なる石ころと化してしまう。
 何かに喩えることなど出来ない。
 純粋にして唯一絶対の、黒。





 男はさんざんダイアを視線で愛でてから、でっぷりした体を革張りの椅子に深々と沈ませると長いため息をついた。
 長い間離ればなれであった愛しい恋人に会えたような、そんな幸福感が体中に満ちている。
 出来ることなら見えぬ淑女の手を取り、この場で踊り出してしまいたいほどだ。
 自然と頬がゆるんでくる。指が、肘当ての上で軽やかにリズムを刻む。




 ――――今度のオークションの目玉は決まったな。




 ほくそ笑んだ男の脳裏では、早宝石への賞賛は薄れ、代りにいかにして人々の注目を集め、ダイアの評価を高めるかの算段が始まっていた。
 評価と比例するように、ダイアの値段は上がってゆく。
 ならば出来るだけ――――そう、可能ならば伝説のホープダイアモンドよりも高い評価を得てから売り払いたいものだ。




 ――――男は、己が一般の人間よりも遙かに高い審美眼を持っていることを自負していた。
 それと同時に、男は己が一般の人間よりも遙かに芸術に対する興味が無いことを自覚していた。




 彼にとって宝石とは、ただのきらきら光る鉱物の一種であり、金と同義語であった。
 当然、このブラックダイアモンドにまつわる呪われた逸話など毛ほども信じてはいなかった。




 凶事を運ぶとされるブラックダイアをわざわざ運び屋まで使って持ってこさせたのは、呪いを恐れてのことではなく、ただ純粋に自分に付けられた警察の目を欺くためだ。
 ここ最近はおとなしくしていたので警察も油断しているだろうが、用心するに越したことはないだろう。
 まさか警察も、国際手配のかけられているダイアが人通りの多い新宿駅の、それもコインロッカーの中無造作に放り込まれているなど思わないだろう。
 さらに万全を期して受け取りには、自分に関係のない人間に行かせた。
 無論、大事な「商品」を運ばせる訳なのだから、見張りは付けていた。
 が、これも仕事紹介サイトを通じて雇った見知らぬ人間。自分には関わり合いのない相手だ。






 ――――そして、彼らはもうこの世にはいない。






 今や男がブラックダイアを所有していると知っている人間は取引先と、運び屋達の始末を頼んだ、以前からつきあいのある卍一族くらいのものだ。
 彼ら卍一族も、金さえ積めば今回の件に関して余計な詮索はしないだろう。




 結局、世の中金さえあればうまい具合に廻るように出来ている。




 そう結論づけると、なぜだか笑いがこみ上げてきて、男は口角をつり上げ忍び笑いを零した。ダイアに移り込んだ自分が、愉悦に顔を歪めこちらを見つめている。


 何もかもが己の思うがまま。
 こんなに事が順調に運ぶなど常にない。
 男は手にしたダイアにまたひとしきり光を当てた後、慎重に小箱の中へと戻した。


  ――――何が「呪いのダイア」だ。


 ダイアを納めた小箱を手に鼻を鳴らす。
 運搬の最中、運び屋につけた見張りが報告してくる諸々の珍事に、一瞬でも呪いを信じかけた自分がバカらしい。
 現に、自分はこれを手にいれてから何もかもがうまくいっている。
 結局あの運び屋が極端に運のない人間だったか、あるいは極端なドジだったのだろう。


 ――――だが、自分は違う。


 このダイアを足がかりに、もっと上り詰めてやろう。
 これは自分にとって疫病神などではない。
 喩えるならば、まさしく幸運の女神様、だ。
「……だが、それでは商品のセールスポイントが無くなってしまうな」
 そう独りごちて、男は深く椅子に身を沈ませると満足感に目を細めた……。










 ――――その歪んだ視界に、人影が映り込む。










 驚きに声も出なかった。
 とっさに立ち上がろうとしたが、足がもつれてより深く椅子に体を沈めてしまう。
 気配など感じなかった。ドアが開く音すらしなかった。至る処につけられているはずの警報も鳴らなかった。
 なのに、今重厚な樫のドアを背に子供がうつむき加減に立っている。
 ぼろぼろの衣服と夕日色の髪には見覚えがあった。




 ダイアを運ぶのに雇った運び屋の少女だ。




 卍一族に始末を任せたはずの少女が、最後に見たのと全く同じ姿で今、男の視界に立っている。
 腕には、ダイアを運ぶ際のカモフラージュに使ったアンティークドールを抱きしめていた。


 驚きに気を取られていた時間は短かった。
 すぐに正気を取り戻した男は事情を察し、胸中舌打ちをうつ。
 どうも、卍一族がドジを踏んだらしい。
 卍一族とのつきあいはそれなりになるが、こんなこと今まで無かった――――だが、まぁいい。と、男は少女に気取られぬよう机の裏に手を伸ばした。
 みれば相手は手負い。おまけに武器を手にしている様子もない。そうでなくとも相手はか弱そうな少女。
 卍一族がどんなドジを踏んだか知らないが、この程度の相手なら自分でも容易に始末がつけられるだろう。
 考えながら探る指が、机の裏に備え付けられた拳銃を掴む。
 その時。




「痛い」




 それまでずっと押し黙っていた少女が突然口を開いた。


 うつむいているため表情は見えないが、その声はズタボロの風体に似合わぬはっきりしたものだった。
 驚いて、拳銃を掴んだ手が固まる。








「依頼品、無くしちゃいけないと思って、鞄につけといた発信器手繰ってここまできたけどさ、正直疲れた……。こんな時間にあんな場所じゃタクシー流れてるわけないし、捕まえてもお金無いから乗れないし、しょーがないからその辺に捨てられてた自転車使って追っかけてきたけど、マジ疲れた……」


 少女はその場に直立したまま話を続ける。ただ時折、うつむけた頭がリズムを刻むように揺れている。
「アタシ、実は自転車、補助輪つけないと乗れないんだよね。ここに来るまで何回転んだと思う。たぶんギネスとれるよマジで……」
 話しながら、少女が一歩。足を進める。
 のっそりとした歩調がぼろぼろの風体と相まって、さながらゾンビのようだ。




 ――――いや。さながらではなく、本当にゾンビなのかもしれない。




 生まれてこの方オカルトめいたことなど信じたことのない男ですらそう感じてしまうほど、歩み寄る少女の姿には奇妙なプレッシャーがあった。


「マジ体打ったところが痛い……。ふくらはぎも痛い……。ここに来るまで坂とか結構あったし、大急ぎで漕いできたから今足が超痛い……。昼間一輪車に激突された脇腹も痛い……。コンバインに轢かれかけた足の親指も痛い……。頭も痛い……。頬も痛い……。首も痛い……。肩も痛い……。腕も痛い……。胸も痛い……、腰も痛い……、背中も痛い……、ふくらはぎも痛い……足首も痛い……土踏まずも痛い……みんな痛い……みんな痛い……みんな痛い……みんな痛い……痛い……痛い……痛い……痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――――」






 ――――鳴り響く銃声に少女の声が途切れた。






 堪えきれずに撃った銃弾は、すでに目の前までやってきていた少女の肩を撃ち抜いていた。
 だが少女はうめき声一つあげず、立ち止まっただけ。
 今度こそ。
 と、構えた男の手に拳銃はない。
 拳銃は、男の手を離れ机の上に転がっていた。そこで男は初めて知る。
 自分の手が震えていることに。拳銃を取り落としてしまうほど汗を掻いてしまっていることに。




 ――――自分が、この年端もいかぬ少女に脅えていることに。




 気がついた事実を否定するように拳銃を再び構えようとするが、どういったわけか手が動かなかった。
 それどころではない。
 まるで縫い付けられたかのように、視線が少女から外れない。
 さっきからうるさいくらいに耳の裏でがなり立てているのは、自分の心音だろうか。
 少女しか見えない。
 自分の心音しか聞こえない。
 この二つ以外全く切り捨てられた世界に。




「……でもね?」




 静かな少女の声が滑り込む。
 それまで彫像のように固まっていた少女がゆっくりと動き始めた。
 俯けていた頭が、徐々に、徐々に上がってくる。


「でも……」
 擦り傷のある頬が見えた。


「でも……」
 わななく唇が見えた。


「でも……」
 同じようにうつむいていた人形の顔が見えた。







「でもそんなの、背中切られたこの子に比べれば、どうってこと無い」







 ――――悲鳴すら上げられなかった。

あとがき

ホラーに挑戦。見事に玉砕。
 幼い子供にとって、「大事な人形」とは「友達」であり、「血肉の通った人間」と同じだそうです。
主人公がブチ切れてるのは、そう言う理由。

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