Welcome To Hard Luck!
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見たところは何の変哲もない人形だった。 恐る恐る手に取ってみると、小柄な見た目と違ってずしりと重みがある。 顔と手足は磁器でできているが、体の部分は布を詰めただけらしく柔らかい。 どうやら作られてから年代が経っているモノらしく、身にまとったドレスは色あせている。 こんな汚くて狭いロッカーの中よりも骨董屋の店先にでも飾られていた方がよっぽど似合いなのになぁと考えながら――――は思わずほぅっ……と吐息をついた。 人形を見つめる目が思わずとろりと蕩けてしまう。 なんて愛らしい人形なのだろう。 手にした人形の髪にそっと指を滑らせると、甘やかな蜂蜜色の巻き毛が冷たく指に絡んだ。 ボンネットに飾られた見知らぬ花の布細工は、めしべ、おしべまで精巧に作られており本当に香りが立ちそうなほどだ。 陶器で作られた顔は、言葉で言いあらわせられない、どこか不思議な高貴さで満ちていた。 見方によっては、微笑んでいるようにも無表情にも見える。 瞳はガラスなのかそれとも本物の宝石なのか。鑑定眼のないにはさっぱり分からなかったが、とにかく綺麗な青をしていることだけは分かった。 うっすら赤らんだ頬や耳たぶは手垢で汚れていて、それがまた汗ばんだ本物の人の肌を思わせどこか艶めかしさすら漂っている。 磨き上げられたつややかな歯が、桃色の唇の間から覗いていた。 身に纏うドレスは幾重にも薔薇の花ビラを重ねたかのようにふんわりと優しく人形の身を包み込んでいる。 色はすっかり褪せていたが、その褪せ方もまた上品で、セピア色……とでも言えばいいのか。 元は純白だったであろうドレスに縫いつけられたレースの裾が、ほんのり薄茶に染まっている所など、人形の生きてきた長い年月を思わせ実にいい。 ずっと同じ家で大事にされてきたのだろうか。それとも、何人もの人の間を巡り回ってきたのだろうか。 どんな人物が手にして、どんな人物がこの人形と共に過ごしたのだろう。 は人形が過ごしてきたであろう途方もなく長い時間に思いを馳せる。 でも、こんなに愛らしい人形なのだ。 きっと大事にされてきたに違いない。 は人形にうり二つの可愛らしい異国の少女が人形と一緒に遊んでいる姿を想像し、胸を高鳴らせた。 (……どうしようかなぁ) は人形をうっとり見つめたまま、自分の中にどうしようもない欲求が高まっていることを感じていた。 ――――欲しい。この人形が欲しい。 こんなに可愛らしい人形にこの先出会うことはないだろう。 よしんば出会うことがあったとしても、きっと目玉が飛び出るぐらい高いに違いない。 定職に就かず、借金返済に追われ、毎日三食まともに食べられないほど貧乏なにはきっと手出しできないだろう。 ――――奪ってしまおうか。 芽生えた衝動のまま、人形を掴む手に力を込める。 依頼人とはメールでしかやりとりをしていない。元々こちらの個人情報はいっさい相手に教えていない。 アドレスを変えさえすれば、それだけでもう連絡はつかなくなる。 しばらくは仕事を受けるのに利用したサイトに行きづらくなるが、それも名前を変えるなりなんなりすれば問題はない。 は空唾を飲み込んだ。 人形を掴んだ親指がぐっと人形の腹にめり込む。 ざらざらと鼓膜の裏で音がする。血がいつもの倍、早く流れている気がする。 視線を合わせた人形の真っ青な瞳が、浚ってくれと懇願しているように見えた。 思わず、隠すように人形をぐっと抱きしめる――――の脳裏に、突然ある顔が浮かび上がった。 血迷いかけたを妄想から引きずり下ろした顔。 それはが憎んでやまない青年、美堂蛮の顔だった。 想像の中で、憎たらしいくらいに綺麗な紫紺の瞳が嘲笑に歪んでいる。 (やっぱり、お前はその程度の奴なんだよ) 幻とは思えないほど鮮明に頭の中で再生された声がの意志の弱さを嗤っている。 奥歯も砕けよとばかりに歯ぎしりしたは、渾身の力を込めて人形を胸元から引きはがした。 「――――アタシは、プロだ」 目を閉じ、未だ人形の呪縛に捕まったままの己に言い聞かせるようにつぶやく。 たとえ仕事が全くこなかろうが、同業者から軽んじてみられていようが、未熟だろうが、自分はプロだ。 どんな依頼であろうと完璧にこなす何でも屋として生きていくと、そう決めたのだ。 一度受けた依頼を、己の都合と欲で蹴るなどプロとしてはあるまじき行為だ。 「これは。仕事」 呟くとはあらかじめ用意しておいた緩衝材のはいったバッグに人形を手早く詰め込みファスナーを閉じる。 正直、ファスナーを閉じる手が震えた。 閉じる瞬間、かち合った人形の瞳がやけに悲しげに見えたが、そこは血反吐を吐く思いで見なかったことにする。 はバッグを胸に抱きしめると、足早にその場を後にした。 歩きながら、依頼主に向かって手早くメールを飛ばす。 今は一刻も早くこの依頼を完遂しよう。 そしてまた、新しい依頼を受けよう。 たくさんたくさん依頼を受けて、さっさと借金を返して、それからお金を貯めて、改めてこんな子みたいに可愛らしい人形を手に入れよう。 いつか自分だけの力で手に入れる。 それまでは我慢だ。我慢するしかない。でも我慢できなくなったら……。 「自分で作っちゃおうかなー」 それにしても、こういう人形は何で出来ているのだろう。紙粘土で作れるものなのだろうか。 小首を傾げながら、出勤登校途中の人々と一緒に改札口を出る。 ――――鋭いクラクションと共に突然眼前に現れたトラックの姿は、そんなとぼけた考え事を粉砕するには十分の破壊力を持っていた。 |
あとがき
主人公の現状と少女趣味の暴露。 そして自分の欲望とプライドに正直すぎる。 |