14. 逃がす 【ヒロイン side】
「ッ」
息を切らしながらその部屋に転がり込むように入ってきたのは歌舞伎町にある松本医院の医院長 松本良純。
白ひげをたたえた初老の医者はと呼んだその女性を見つけると、怪我もなく無事な姿を確認してほっとため息を付いた。
「無事だったか…」
「良純先生」
経営者と雇用者というには親密そうなその様子にふと疑問を感じた山崎が訪ねると、松本は保護者も兼ねている事を説明しながらこちらに向かって大げさなくらい頭を下げた。
「本当に、申し訳ございませんっ。警察の方々にこのようなご迷惑をおかけするとは…」
「…」
「全く…慌て者はいかにワシとて治せないぞ」
「ごめんなさい…ただの喧嘩だと…」
しゅんと頭をうなだれたその姿はあまりにもかわいらしくて庇護欲をそそる。それにまんまとつられた(?)男たちは苦笑まじりにため息を付く。
「まあ、人払いを徹底しておかなかったのは我々の責任ですし、私服で潜ませてましたので誤解させてしまって謝罪するのはこちらの方です。なにより怪我がなくて本当に良かった!」
そう言って、近藤はにこりとを安心させるように笑った。
「本当にすいませんでしたっ」
その笑顔をみたはなおさら頭を下げて小さくなる。
「それよりあんた、どうしてあんな所に居たんだ?…あと、悪かったな…簪」
ふと、近藤の直ぐ横の壁に寄りかかっていた土方が口を開いた。
謝っていたのは、飛び出したときが落したらしい簪を先頭切って突入してきた土方が踏みつぶしてしまったからだ。
そういえば。と山崎も思ってから、あの先には小さな神社があったな、と思い当たる。
はっと、顔を上げるとほんの少し恥じらうように小さな声で彼女は話しだす。
どうやら、親代わりのお医者さんにも言っていない事だかららしい。
「はい。あの先にある神社にお参りを。仕事の都合が付いた時…月に一二度くらいなんですが… あ、気にしないでください!安物ですし。自分の責任です!」
更にもう一度深く頭を下げた。
「そうか、…ならもう良い。帰って良いぞ」
もうやめろとめずらしく困ったように手をかざし土方は部屋を出て行ってしまう。
屯所の入り口まで見送りながら、全く運が悪い女性だなあ。と、そんな彼女に山崎は密かに同情した。
「それで…?無事逃がせたのかい?」
しばらく歩いていると、前を行く松本が不意に呟くように言った。その声は周りに聞こえないほど小さく潜められてはいたが、後ろを歩いていたはその意味にすぐ気づいて深々と頭を下げ同じように小声で返した。
「…たぶん」
「そうか」
「…ごめんなさい…」
「ワシは、あの者たちの考えには同意できぬ。それはお前とて同じだろう?」
そこまで言って振り返った松本は、俯いて顔を上げないの頭をそっと撫でる。
「…しかし、可愛い妹分の笑顔を見みたいと思うその小さな息抜きは、わからないでもないのぉ」
「顔を見に来てくれただけだったの。今日は、ほんとに」
いつもの優しい声に戻った親代わりの老人に、こくりと頷いた娘はただ小さく呟いた。
「あれ? ちゃん、なんか落ちたわよ?」
病院に戻り更衣室で着替えていたに同僚が声をかける。
緩められた着物から何かが落ちて足下に転がったようだった。
「…え? あ 」
きょろきょろと辺りを見回して、ほんの少し離れた所でそれを見つけたは、脱ぎかけのままの姿でかまわずしゃがみ込む。
それは小さな小さな兎の焼き物。小指の先ほどの大きさしかない白兎をつまみ上げたが幸せそうに笑うのを見て、彼女は首を傾げた。
「なに?」
「…お土産?」
「え?」
小さな呟きは彼女には届かなかったようだ。
黙って首を振るとはそれを大切そうに懐にしまう。
人を見下した笑いばかりをその整った顔に貼付けているあの男は、なぜか自分には穏やかな笑顔を向ける。たとえ狂っていたとしても、見つめてくる瞳はいつまでもあの頃のままで。それゆえは諦める事が出来ない。
もう二度と戻らない時間だとしても、共に過ごしたあの日々はまぎれも無い事実で忘れられるわけもない。
「…ただの悪戯です。さっきすごーくかわいい黒猫が遊びに来てたので」
だから、あの笑顔が消えないうちは、決して望みは捨てない。
2006.10.10 ECLIPSE