今日の空はとても怪しい。
吹く風は生暖かく、みるみる内に雨雲が育ってくる。
そういえば今日の天気予報は見ていなかったなと今頃気づいて、はカカシの部屋の鍵を開けた。
ドアが閉まると、屋外の音はシャットアウトされ、全く聞こえてこない。
その事には気づかず、は購入した荷物をダイニングのテーブルに置く。
秋刀魚などの生鮮食品は悪くなってしまうから一旦冷蔵庫へ。
何度も来ているカカシの部屋で、何度か開けた事のある冷蔵庫は、もう勝手に開ける事への罪悪感はなくなって来ている。
人の家の冷蔵庫というのは、何となく開ける事を躊躇ってしまうものだ。
自分のバックからエプロンを取り出して、きゅっと腰を締めれば、自然と入る気合。
カカシと一緒にこの台所に立ち、料理をした事もあってか、何処に何が納まっているかは大体分かっている。
米を研ぎ、セットして、野菜の皮を剥き始めると、気づく買い忘れ。
塩焼きの秋刀魚には大根おろしが大事。
無くても食べれるが、やはりあった方が美味しい。
はエプロンを外して椅子に掛けると、この家の鍵と小銭入れだけを持って部屋を出て行った。
夏の雷、秋の稲妻 第六話
「すいませ〜ん、大根下さい」
商店街の八百屋で、は店のオジさんに声を掛けた。
するとそのオジさんは、申し訳なさそうに後頭部へ手を回す。
「ごめんね、さっき全部売れちゃった所なんだよ」
「……そうなんですか?」
八百屋の大根が全て売り切れるなんて事は珍しい。
「料亭の若いのがね、仕入れ忘れたらしくて、全部買って行っちゃったんだ。すまないねぇ、明日には入るから」
「わかりましたー」
は務めて明るく言って、踵を返した。
明日入荷すると言われても、今欲しいのだから、あまり意味が無い。
運悪く商店街にある、もう一軒の八百屋は定休日。
空の様子を伺い、大丈夫だと自分に言い聞かせて、は里の中心から離れたスーパーへ向かった。
灰色の空はどんどん重くなってくる。
自分に圧し掛かってくるように。
それから逃げるように着いたスーパーに飛び込めば、空から降りた雫が一つ、地面に色を付けた。
買うのは大根だけだから時間は掛らない。
でも半分に切られた大根を一つ買って、が急いでスーパーを出ると、もう空は泣いていた。
ポツリ、ポツリと降りてくる雫は大きく、すぐにその数を増やして。
最短ルートを頭で検索しながら、は道を歩く。
最初は雨粒を弾いていた髪もすっかり濡れ、水滴が頭皮を伝い流れてくる。
拭っても、拭っても、前から上から降ってくる雨。
睫では防ぎきれない雨が、目に滲み込んできた。
視線を落とし、雨に濡れ冷たくなった自分の身体を抱きしめながら、はカカシの部屋を目指す。
あちこちに出来た水溜り。
ここまで濡れればあまり変わらないと、避ける事も少なく前に進んだ。
気の所為だと思い続けていた音も徐々に大きくなって、自分を責めている様に聞こえる。
今度は小太鼓のリズムに似た雷鳴を遮る為、自分の腕を抱いていた手の平を耳に押し当てた。
小太鼓が大太鼓、そしてドラム缶を打ち付けるような音に変わるまで、然程時間は掛らなかった。
夕暮れを素っ飛ばして、辺りは闇。
暗闇と眩い閃光が交互に繰り返され、耳を塞いでも、電撃の音は消える事はなく。
歯の当たる音を骨が拾い伝えてくる。
小石を叩き合うような音が頭に響いて。
雨に濡れた寒さと恐怖から来る震えからか、顎に力が入らなかった。
歯を喰い縛ろうとするけれど、自分の意思とは反して動くそれ。
時折強く当たる自分の歯に痛みすら感じる。
頬に貼り付く髪からは雨水が流れ、唇は血の色を失くしていた。
代わりに脳裏に浮かぶ赤。
そして誰のか分らない叫び声。
もう、何処を歩いているのかも分からない。
何処へ向かって歩いていたのかさえも。
─── 助けて!!
心が叫び声をあげるけれど。
何からか。
誰をか。
それすらも、分らない。
空に負けない位の涙と降りしきる雨の所為で、視界が霞む。
闇雲に動かしていた足先が、路地裏に置いてあったビールケースに引っ掛かった。
体勢を崩した身体が狭い路地の壁にぶつかり、はそのまま壁を伝い奥へ入って行く。
その先は行き止まり。
黒と白、交互に繰り返される世界。
そこに浮かぶ赤。
「イヤァァッーー!!」
の絶叫が雷鳴の狭間に響いた。
内側から込み上げてくる恐怖と絶望と。
黒い負の感情がの心を壊しに来る。
「誰か………助…ケ…テ………」
黒の次は白。
黒かった心が真っ白な世界に変わって行った。
怖いのなら、怖がらなくて済むように。
聞きたくないのなら、聞こえなければいい。
見たくないのなら、見えなければいい。
自分の心を守る為、は肉体と精神を切り離しに掛る。
いつ戻れるかも分らないのに───。
壊れた電気の様に点滅を繰り返す空の色は、瞼を閉じても消せない。
手の平で耳を押さえても、隙間に入り込む音は遮断出来ない。
だったら、もっと奥深い所まで墜ちればいいと。
あんなに轟いていた雷鳴は、もう聞こえなくなってきた。
激しい雨音も。
閉じた瞼の裏は、白。
何も無い。
落とさない様に持ち続けていた物。
それが辛うじてを、此処に繋ぎ留めていた。
今やビンゴブックに載るような男が、忍術の勉強をし始めた頃───
「なぁ、父さん」
「んー、なんだー?カカシ」
「オレの名前って、父さんが付けたの?」
一緒に家の縁側に座って、各々巻物を広げていた筈なのに、カカシの父サクモは何時の間にか寝転び、持っていた巻物は顔に乗せられ、日光を遮る為の物になっていた。
「いや、母さんと二人で考えたんだよ。まーでも、オレかねぇ、やっぱ」
サクモはよいしょと一声発して起き上がり、再びカカシと横並びに座った。
「なんでまた急に?」
「別に……」
ニコリと目を細めて問う父に、カカシは照れくさそうな顔を浮かべてそっぽを向いた。
「へぇ〜カカシ君も自分の名前の由来とか、気になる様になってきたんだ」
「そんなんじゃっ……」
煽り言葉に思わず父の顔を見て、カカシの語尾は小さくなっていく。
それはやはり父の言う事が自分の本心だから。
「“はたけ”と云えば“カカシ”でしょ」
「……やっぱり、畑の案山子からとったワケ」
「まぁね〜」
「なんて言うか……単純すぎやしない?」
「そ?オレは気に入ってるよ。カカシの名前」
「そりゃ、自分で付けたんだから、気に入ってもらわなきゃこっちが困ります」
小さな溜息を零して、カカシは庭へ視線を移した。
「“はたけ”を守るのは“カカシ”だよ」
その言葉で自分を見たカカシに微笑みを投げて、今度はサクモの視線が庭へ向けられる。
「長男だしねぇ……ってそれは冗談で。婿養子に行っても別に構わないけどね。好きな子が出来たら」
「あのさぁ……父さん…」
気の早い父の言葉。
それがこの話の本筋で、これで終わるのか考えあぐねていると、サクモは話を続けた。
「雨の日も、風の日も、うだる様な暑い日でもアイツは守り続けてる。ヤツは強いぞ」
飄々と風に舞っているようで、その足は大地にしっかりと。
広げられた両の腕は揺るぎなく。
時には誰かの道標となる事もあるだろう。
どんなに強い風が吹いても、
どんなに強い雨に打たれても、
彼は守り続ける。
人々の命と、笑顔を。
「別にオレ達を守って欲しくて付けた名じゃない。カカシ……オマエに守りたいものが出来た時、それを全身で守れるような男になって欲しくてね……。それで、付けた名前なワケ。……分かった?」
自分の名前に、そんな想いが込められているとは全く思わなくて。
嬉しい気持ちを、素直に表現出来なくて。
カカシはコクリと首を縦に動かしただけだった。
でもその照れくさそうな顔は、親に気持ちを伝えるには十分。
サクモは幸せそうに笑いながら、ポンポンとカカシの頭に手を置いた。
守りたいもの
守るべきもの
それは、仲間とこの里で。
そんな大きなカテゴリーの中、分類されたもう一つは。
『 愛する人 』
この気持ちをカカシが自覚したのは最近の事。
でもその始まりは、初めて会ったあの日なのかもしれない。
まだ頭の隅に隠れている遠い記憶だけれど。
濡れる事など物ともせず、カカシは屋根の上を跳ぶ。
風に負けない様につま先に力を込めて。
雨が飛礫の様に成ろうとも。
振動する空気と落ちる稲妻。
の気配を感知したカカシは、その場所を目指して跳び続ける。
徐々に濃くなっていくの気配は、近づいている証拠。
見下ろした先。
カカシの目に飛び込んで来たのは、路地裏の行き止まりで呆然と立ち尽くすだった。
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2008/03/24 かえで
BGM 「終雪」