火影岩に登って手を伸ばしたら、厚みを帯びた灰色の雲を掴めるのではと思う程、
空は低くそして重い。
里には水分を多く含んだ風が、人々の体に纏わり付いて流れて行く。
灰色だった空は瞬時に黒へと変わり、泣き出しそうな雨雲の中を紫の稲妻が走り下りた。
雷鳴と交互に繰り返される光は、空の怒りか。
外の景色を遮るカーテンは一日中開けたままで、明かりも付けず、
ベットに寄り掛かり膝を抱えていたは、雷神の轟きに全身を震わせた。
頭に浮かぶのは真っ黒と、そこに広がる赤と、白く弾けた眩い光。
怒りと、不安と、絶望と恐怖が渦を巻く。
雷神が姿を表す度に、全身が潰されそうな感覚に陥って。
このままではいけないと、毎回しているように、雨戸を閉めて音楽を聞こうと立ち上がるが、
数日ろくに食事も睡眠も取っていない体は、迅速には動いてくれなかった。
やっとの思いで立ち上がり、窓に向かえば、また轟音と稲光が駆け降りる。
それはまるで、窓枠に嵌め込まれた一枚の絵のように。
表題を付けるのならば、神の裁き。
─── カカシさん!
心の中で、助けてと続く叫び声をは押し留める。
彼も戦っているのだから、頼ってばかりではいけないと。
そして───
大丈夫、信じていれば、必ず帰ってくる。
特別上忍不知火ゲンマの言葉を思い出すけれど、その後に植え付けられた不安がまた重なり、侵食していく。
『 信じて待っていても、裏切られるし 』
『 どんなに願っても、失ったものは戻らないんですよ 』
ツクシの言葉は毒のように、ゲンマから貰った支えを腐らせていた。
夏の雷、秋の稲妻 第十五話
降り始めた雨の音と風の音に混じって、チャイムの音が部屋の中に響いた。
続けて聞こえたのは、ドアをノックする音。
耳を塞ぎ、窓枠から入り込む稲光に目を背け、は小さな玄関に向かった。
覗き穴から外の様子を伺えば、見知らぬ男が立っている。
カカシとは異なる額宛てと、カカシと同じ忍服。
里の忍である事は分かるが、そんな彼が自宅へ訪れる意味はなんだろうと、
は怪訝そうに部屋の中から、外の人物へと声を掛けた。
「……?どちら様ですか」
「ヤマトと言います」
「ヤマトさん……?」
「はい。カカシさんの後輩にあたります。カカシさんの事でお話が。あ、そのまま聞いて下さって結構です」
無言を続けるにヤマトは次々と言葉をかけ、カカシが無事だと伝えようとすれば、目の前のドアが開いた。
「カカシさんに……何かあったんですか?」
「いえ、無事ですよ」
「本当に?」
「ええ。訳合って……。いえ、貴女に隠す必要はないでしょう。
今回の任務に於いて里内に内通者が居ました。ですから事実を伝えるのが遅くなりまして」
すいませんと謝りながらヤマトは頭を下げ、向き直れば、彼女の表情が先ほどよりも若干和らいだ気がする。
「現在は作戦も成功し、里へ帰還中の筈です」
激しくなる雨音と、紳士的な口調で話す彼の声が耳に届くけれど。
ツクシからの言葉の毒は、ゲンマが埋めた傷口を開き、入りこんで、を犯していた。
表面は雨に打たれたように綺麗になって行くが、入り込んでしまった毒はカカシにしか拭えない。
─── 筈とは、どういう事かと。
手放しで喜べない理由はこれ。
ヤマトというカカシの後輩が放った語尾に不安が募るのだ。
筈とは、仮定の言葉であって、事実である証拠が無いと受け取れてしまうから。
極限まで張りつめた糸を切れるのは、やはりカカシの顔を見てからだろう。
でも態々教えに来てくれた彼には感謝しているから、は唇の端を無理に上げ笑って見せる。
「良かった……」
そうは小さく言って、ヤマトの足元を見た。
朗報を持って来てくれた彼に、素直に喜べない自分が申し訳なくて、視線を外してしまったのだ。
「ええ、本当に良かったです」
俯くに微笑みかけ、穏やかにヤマトは返す。
全ての経緯を聞いているヤマトには、彼女の気持ちがよく分かるから。
彼女が自分を気遣い無理に笑っている事も、カカシが無事な姿を見せるまで、安心は出来ないだろうという事も分かってる。
それは彼女とカカシの関係を知る人物、そして今回の事件を知る者ならば誰もが思うだろうし、彼女を責める者も居ない。
確定的な言葉を使えなかったのは、正式な報告がまだ届かないからだ。
任務は成功したとしても、真っ直ぐに里へ帰還するのかは分からない。
他里へ立ち寄る場合も考慮した上で、無意識に使った言葉だ。
「大丈夫ですか?」
そんな彼女を放っておけなくて、ヤマトはに優しく言葉をかけた。
彼女の笑顔と元気な姿は何度も見ているから、弱々しくなった今の姿がやけに悲しい。
「え?」っとヤマトの問いに顔を上げ、は彼の目を見る。
彼とは初対面。
ずっと見守り、自分の心配をしてくれていたのだとは、の知る処では無く。
でも気遣ってくれているのが分かるから、大丈夫だと答えようとしたその時に、轟音が響き、彼の背後には紫の稲妻が走り下りた。
「キャア!!」
咄嗟に耳を抑えて蹲り、は大きく震えだした。
紫の稲妻に全身が警戒信号を出して。
「さん、すいませんっっ」
慌てて自分の体を使い、ドアと外の隙間を隠したヤマトがそう言うが、彼女はガクガクと震えたまま。
「もう閉めます。あの、誰か呼んで来ましょうか?お友達でも」
この状況下、傍に居てやりたいのは山々だが、それは出来る事では無く、
ヤマトは店の友達か、良く知るくの一でも呼びに行こうかと声をかけた。
カカシに釘を刺されたのもあるが、きっと彼女は自分が名乗りを上げても、部屋に招き入れないだろうから。
「大丈夫……です。すいません……お見苦しい所をお見せしてしまって」
蹲ったは何とか気丈に振る舞い、顔を上げた。
でもまた落ちた稲妻の光は、ヤマトの頭上に出来た僅かな隙間や、仕切りの無い窓から、無遠慮に入り込んでくる。
黒から紫、そして白へと。
その瞬間を目を閉じて堪え、は再びヤマトを見上げた。
だけれど目に映っているのはヤマトであるのに、頭の中のスクリーンが勝手に幕を開け、見えていない物を伝えてくる。
それは自ら封じた記憶の断片。
「………………嘘」
真っ赤に染まった自分の両手と、両親の死顔。
「…………私……が?」
そこから走って逃げる自分に放たれたクナイ。
「どうかしましたか?」
自分の手の平を凝視しているにヤマトが声をかければ、彼女はビクリと震え、勢いよく立ち上がった。
でもその表情は、先ほどとは比べ物にならない位に悪い。
「なんでもありません。……どうも、ありがとうございました……」
は一礼すると、ドアノブを握り締め、引いた。
カチャリとドアが閉まり、慌てて施錠する音とチェーンを掛ける音が、外に居るヤマトの耳に届く。
それを聞き届けて、ヤマトはドアの前から姿を消した。
大角を拘束し、チャクラの檻に封じ込めたカカシは、里へ帰還する部隊の先頭を跳んでいた。
天候は木の葉に近づくにつれ悪くなってゆく。
空は淀み、黒い雲が急速に育てば、里の方角に紫の稲妻が駆け降りている。
の名前を心で呼びながら、カカシは森を走り続けた。
早く里に着きたい。
きっとは泣きながら震えているだろうから。
早くその身体を抱きしめてやりたいと、気が急く。
任務は報告を残すのみ。
大角を連れ立って居ないのが幸いだ。
情報を得たのも、作戦の総指揮を執ったのも木の葉であるが、大角の身柄は雷影に託す事になった。
各国、各隠れ里の尋問を受けた後、最終的に制裁を加えるのは雲隠れ。
大角を移送するよりも、各里から忍を派遣した方が良いだろうと協議の結果決まった。
強面の木の葉を代表する尋問官は里を離れられないとすれば、白羽の矢先はおのずと決まってくる。
過去に大角の起こした事件と、今回の全てを知る男。
今締め上げてる草の情報を持ち、彼は雲隠れの里に行く事になるだろう。
きっと。
「誰かさんの雷喰らうより、遥かにマシだな」
チガヤを捕縛したゲンマがポツリと溢した声を、カカシの耳が拾った。
森の中を駆けながら、彼等のチャクラを感じていた。
人為的な雷の存在も、戦いの気配も。
「誰かさんって、誰?」
木の上から、己の肩を見て苦笑しているゲンマに、カカシは声を投げた。
「カカシさん、お疲れ様です」
ゲンマが振り仰ぎ声を掛けると同時に、地上へと降り立つ。
カカシはチラリと地面に転がる草を見て、ゲンマの肩に視線を移すと合点が行った風に眉山を上げた。
「そっちもね。お疲れ。標的は然るべき所に送ったよ。まぁそれに付いては後ほど。オレ急ぐから。」
「ええ、そうしてやって下さい。今頃は誤報も撤回されてます。里に戻っても幽霊だとは思われませんよ」
「それは良かった。イズモとコテツ、からかってる余裕ないしね。残念だけど」
からかうとは、如何にも彼らしい。
今回とは違う形だったのなら、幽霊に扮して一芝居でも打ったのだろうかと、ゲンマは苦笑する。
「そうですね」
じゃあとカカシは片手を上げて高く飛び上がり、枝を渡って行けば、彼に追い付いた同僚達もゲンマに手を振る。
カカシ同様、彼等にも、待たせてる人がいるだろうから、急ぐ気持ちは大いに分かる。
そんな彼等に指先で挨拶して、ゲンマは後ろ姿を見送った。
雨は止み、風が木の葉を揺らしている。
横殴りの雨がガラス戸に水の膜を作り、激しい雨音と強い風の音は、閉め切った部屋の中でも、まるで外に居るかの如く聞こえてくる。
ヤマトを追い返すようにドアをロックしたは、虚ろな目で歩き、部屋の中心で崩れる様に座り込んだ。
─── 嘘……
私が………
殺シタ……?
両親を?
この手で?
真っ赤に染まった様に見える手の平を見つめながら、自身に問いかける。
思い出したのは断片的な記憶で、肝心な経緯や繋がりは思い出していないのだけれど。
それが分からないには、今ある情報だけを繋いでしまうのだ。
血に染まる自分の手。
両親の遺体。
そこから逃げる幼い自分に浴びせられる叫び声と、背中に刺さるクナイ。
は自分が両親を殺して、クナイを放たれたのだと、結論付けてしまったのだ。
両親共が忍であるにも関わらず、自分は一般人。
親とは違う道を歩む者も居るだろうが、自分自身でそう決めた記憶は無い。
忍にならなかったのではなくて、なれなかったのだと。
この里に来てから、親を失った子供は里で手厚く保護され、望めば忍へと成長出来るプログラムや援助が整っている事を知った。
もしかしたら自分は里を追放されたのではないのか。
記憶を失った子供だ。
身内の監視下に置くだけで済まされたのかもしれないと。
ならばどうして成人した自分を里は受け入れたのだろう。
答えは簡単だ。
今度は監視する為に。
でもそんな事はどうでも良かった。
忍になってない自分の事は。
だって様々な道があるのだから。
それよりも、両親を殺したかもしれないという事実。
全身は凍り付き、血の気が引いて行く。
心臓は破れそうな程早く活動して痛みを伴う。
「イヤ……嘘………イヤァアアーー!!!」
手の平の血を必至で拭って。
擦っても擦っても、それは消えてくれない。
稲妻が落ちれば、悲鳴を上げ、耳を抑える。
滑り落ち頬を掠めた手の平の感触はヌルリと。
手の平に掻いた汗が、には両親の血だと感じてしまうのだ。
ガラスに映る自分の頬は、血に濡れていた。
「……やッ……ヤダ………痛ッ!」
背中に走った痛みはクナイが突き刺さった部分。
自分では見えない場所だけれど、年に数回鈍痛に見舞われた事がある。
俗に謂う古傷が痛むという物だが、今の痛みはそれの比では無く、激痛に近かった。
実際、今も尚、クナイに貫かれている様に。
肩甲骨の窪みを手の平で抑え、その痛みには必至で耐えた。
「キャアア!!」
矢継ぎ早に駆け降りる稲妻は、自分を罰しているかの様だった。
いや、実際にそうなのかもしれない。
雷鳴が轟く度、『 オマエガ コロシタ 』と責めている。
「もう……だめ……たす…け……て……」
肩を揺らして荒い呼吸を繰り返して。
「あっ……はぁ、はぁ……」
どれだけ吸い込んでも、足りなくて、もっと息使いが早くなる。
「カカシ……さん……カカシさん、助けて!!」
叫んでも返事は勿論返って来なくて、カカシは居ないのだと思い知らされる。
執務室で聞いた爆発の事、そして全滅という言葉。
その後叩き落とされたツクシの言葉をまた思い出す。
カカシさん、カカシさん、カカシさん、カカシさん────。
何度も心で彼の名前を読んで、無事に帰って来てと願って。
操られてでもいるように、はふらふらとした足取りで玄関に向かうと、ドアを開けた。
外はいまだ、雷鳴が轟いているというのにも関わらず。
「カカシさん……何処?」
もうには雷鳴など聞こえていなかった。
外に出ようと一歩踏み出したその時に、目の前に降りて来た人影。
見慣れた忍服が目前にあって、見上げれば薄っすらと雨粒を纏ったカカシだった。
「………カカシさん?」
「ただいま。心配かけちゃってごめんね」
「カカシさん!!カカシさん!!」
胸の中に飛び込んで来たをカカシは抱きしめて。
もう一度、ただいまと言葉をかけた。
「良かった……無事で……本当に……よかっ…た…………」
全身の力が抜け、意識を失うをカカシは抱き上げて、部屋の中へ入って行く。
「ちゃん?」
何度も声を掛けてはみるものの、返事は無かった。
憔悴しきった様子ではあるが、病的な物は感じられなく、一先ず休ませようと、彼女のベットに降ろした。
冷や汗で張り付いた彼女の髪を掻き上げてやり、眼尻に残った涙を親指で拭う。
以前は色付き、艶やかだった唇も、今はその色を失い、温かさも感じられない。
自分の体温を分けてあげたいと、引き寄せられるように身を屈め、
眠るに唇を重ねようとした、その時───。
背後から首筋にクナイが突き付けられた。
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2008/08/03 かえで
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