シュウさんに言われるまま線路の上を歩き始めた僕は、
その言葉が本当だったと身を持って実感していた。
どこまでも青い空、くっきりと空に映し出される山の稜線、
所々にポツンと立っている昔ながらの家々。
線路脇に小さな青い色がいくつも見えるのは露草だろうか。

何もかもが新鮮で、あらゆる場所に目を奪われた。
僕はいつの間にか線路の上に座り込み、
唯一シュウさんに預けなかったスケッチブックが真っ黒になる位
様々な物を描いていた。

そうしてどれ位の時間がたっただろう。
ハッと気付くと遠くの方から電車の走る音が聞こえてくる。
我に帰った僕はポンポンとお尻に付いた土を払いながら立ち上がり、
ふと線路脇を見下ろした。

すると先程まで元気に咲いていた露草がほとんどしぼんでいる。
空を見上げると、雲一つ無かった空にはいくつかの雲の塊が
出来ていた。
一見先程と何も変わらないように見えるのに、実は同じ物など
一つも無く、次々と自然は移り変わっていく。
僕はこの自然の移り変わる姿を絵にしてみたいと、そう感じた。


シュウさんの宿『月影』はすぐにわかった。
決して大きくはないが、とても落ち着いた佇まいの建物の他に、
こじんまりとした数寄屋造りの離れが3棟ある。
周りの自然ととてもうまく調和しており、
それだけでもシュウさんの趣味の良さが窺える。
僕は取り合えず真ん中の本館らしい建物に入っていった。
入り口で立ち止まって思わず、ほぅ、と溜め息をついてしまった僕に

「お疲れ様です。あまりにも小さい宿で驚いたでしょう?」

と、奥から出てきたシュウさんが笑いながら話しかけてきた。

「い、いえ、そういうんじゃなくて。
 ……ただ、シュウさんを建物にしたら
 こんな感じになるのかなって……」

シュウさんが目を丸くして僕を見ている。

「あ!変な事言ってごめんなさい!
 ……初めて来た場所なのにすごく安心できるなって。
 シュウさんの雰囲気とこの宿の印象が余りにも似ていたので、
 何かそんな気がしちゃって……
 ……って、また意味わかんないですね、すいません……」

何だか自分でも何を言っているのかわからなくなってしまい、
僕は真っ赤になって下を向いてしまった。
あ〜、もう、恥ずかしい!
口下手な自分がとても恨めしく思えてしまう。
シュウさんはそんな僕を見てクスクス笑いながら

「安心できるって事は、この宿も私自身もお気に召して頂けたという
 誉め言葉と受け取って構いませんよね?」

と聞いてきたので、僕はそのまま首をぶんぶんと縦に振った。

「ありがとうございます。
 そんな事を言われたのは初めてですが、とても嬉しい
 誉め言葉です。
 だからそんなに恥ずかしがらないで顔をあげてください。」

そういうシュウさんの言葉に従って、
僕はおずおずと真っ赤な顔でシュウさんの方を見上げた。
するとそのモデルのような顔を綻ばせ、
ホントに可愛い人だ、とか何とか言っている。
意味がわからず、え?と聞き返す僕に、何でもないですよ、と
答えてから

「それではそろそろユヅキさんのお部屋へご案内致しましょう。」

と言って、僕の少し先を歩き始めた。


僕が泊まらせてもらう離れまで、僕のペースに合わせて
ゆっくり歩いてくれる。
そしてその間シュウさんは色々な話をしてくれた。

元々人手を借りて宿をやるつもりがなかったシュウさんは、
せっかく宿に来てくれたお客様には出来るだけ満足をしてもらいたいと
いう理由で、一度に1件の滞在客しか受け入れないのだそうだ。
その上自分からお客さんを募集する事も一切していないと言う。

「こんな何も無い田舎に泊まりに来ようと思う方は
 余りいないですからね。」

そう言ってシュウさんは微笑むが、それが謙遜である事を僕は
知っていた。
ここに来る前、小野さんから話を聞いていたから。

『シュウ君は本当に人をもてなすのが上手でね。
 いつの間にかそれが口コミで広がったんだよ。
 そして一度来た客は必ずと言って良い位常連になるんだ。
 でもなかなか予約が取れなくてね。1年待ちなんてザラなんだよ。』

それだけ人気のシュウさんの宿に、
僕が急に泊めてもらえる事が出来たのには理由がある。

『1年のうち半分は宿を休みにするんだよ。
 実はシュウ君には本職があってね。
 半年は本職をし、残り半分は宿をやる。
 で、丁度今は休みの時期。
 でも無理を言ってお願いしたら、快く引き受けてくれたよ。』

小野さんは僕の為を思って頼んでくれたんだけど、何だか申し訳ない
気がする。
ちなみにシュウさんの本職については、本人が言いたがらないから、
と言って教えてくれなかった。
宿に来るお客さんは、まずシュウさんの本職を知らないだろうという
事だった。

「あの、今は宿が休みの時期なんですよね?
 それなのに無理を言ってすいませんでした。
 僕、自分の事は自分で出来ますし、お仕事のお邪魔に
 ならないようにしますから。
 あ、本職が何かは聞いていませんから安心してくださいね。」

僕がそう言うと、小野さんはそんな事言っていたんですか?と
苦笑してから

「そんなの全然気にしなくて大丈夫ですよ。
 丁度仕事も一段落したところでしたから。
 グッドタイミングでしたね。」

と片目を瞑って見せる。
普通の人がやると気障にしか見えないその仕草が、
シュウさんがやるとあまりにも様になっていて、
僕は思わずぽーっと見惚れてしまった。

「クスッ。ユヅキさん大丈夫ですか?……さぁ着きましたよ。
 ちょっと狭いですが、1週間思うままに使ってやってくださいね。」

ハッと我を取り戻すと、僕は促されるまま離れの中に入った。