6年前、初めてこの場所を訪れた時の事……
2時間に1本しかない電車で、昼頃この村の無人駅に降り立った僕は、
あまりにも何も無い事にびっくりした。
生粋の都会っ子なので、
ここまでの大自然という物をテレビでしか見た事がなかったのだ。
正直呆気に取られてしまって、何をしたら良いのかわからなく
なってしまった。
泊まる場所は小野さんが連絡を入れ確保してくれていたが、
どっちにしろチェックインの3時までにはまだ時間がある。
元々少食な上、さっきの電車内でお菓子をつまんで来たので
全くお腹は減っていない。
鍛えても筋肉の付かない華奢な僕には、
着替えから何から全部の荷物を持ち歩きながら絵を描くだけの
体力も無い。
どうしよう、と電車が行ってしまった線路の上に荷物を置いて
立ちつくし、途方にくれていた時だった。

「何もないこんな田舎に、ようこそおいで下さいました。」

誰もいないと思っていた後方から突然声をかけられ、
びっくりした僕はその場で飛び上がってしまった。
慌てて振り向くと、何でこんな田舎にこんなモデル張りの人が、
と思わせるような人物が微笑みながら立っていた。

年齢は20代後半ぐらいだろうか。
口惜しい事に163センチの目線の僕からすると、
180センチは越えてるだろうと思われる。
背中まで届く真っ黒な髪を麻の紐で1本に結わえ、
一見しただけで高そうだとわかる濃紺の作務衣を嫌味無く
着こなしている。


何者だろう?僕が訝しげにしていると

「あぁ、これは驚かせて申し訳ありませんでした。
 私はこの辺りで『月影(ツキカゲ)』という宿を営んでいる
 葛城宗(カツラギシュウ)と申します。
 貴方は木下柚月(キノシタユヅキ)様ではないですか?」

突然名前を言い当てられて驚いてしまった。
確かに『月影』というのは僕が泊まる予定だった宿だけれども、
いきなりこんな所で名前を呼ばれるなんて。
そんな疑問にカツラギさんは答えてくれた。

「ここは田舎ですから見慣れない方が訪れる事は滅多に無いですし、
 小野さんから木下様の特徴を聞いておりましたから。
 だからすぐにわかりましたよ。」

そう言われれば確かにここは観光名所も無い所だから、
滅多に新参者が来る事も無いのだろう。
それにしても……

「あの、小野さんは僕の事を何て……?」

安心するような優しい表情に、僕はとてもドギマギしながら
そう聞いた。
するとカツラギさんは

「小柄で華奢な身体に似合わず、ものすごく熱い創作者の目を
 持った人だよって。
 ちょっと人見知りで恥かしがり屋な面もあるけど、
 必ず良い絵を描けるはずだから協力してやってくれって。」

と、更に優しく微笑んだ。
その表情を見た時、僕の心臓は跳ね上がった。
そして、どうしてもこの人を描いてみたいと唐突に思ったんだ。


次の瞬間、

「貴方の絵を描かせていただけませんかっ?」

と僕は口走っていた。
どちらかと言えば人が苦手な僕が、人物像を描いてみたいと
思ったのはこの時が生まれて初めてだった。

「わざわざお時間を取らせる様な事はしません。
 いつも通りに動いていていただいて構いませんから!
 だからどうか描かせて下さい!お願いします!」

今を逃してしまったら、きっともう僕には言い出す勇気は
出せないだろう。
こんなに突き動かされるように何かを描きたいと思った事は
無かったので、僕は必死だった。
最初はちょっと困惑気味だったカツラギさんだったが、
あまりの僕の必死さに同情してくれたのだろうか。
あくまで練習用として一切他の人に絵を見せないならという条件で、
苦笑しながらもOKしてくれた。

「でもまずは線路の上を歩いてみたらいかがですか?
 私も時々心を落ち着かせる為にやるのですが、
 真っ直ぐ伸びる線路の上を大自然に囲まれながら歩いていると、
 いつの間にか自分の中の余計な物が取っ払われて、
 心も真っ直ぐになるような気がするんですよ。
 木下様のお荷物は私が先に宿の方へお持ち致しますから、
 気の済むまであちこちご覧になってきて下さい。
 お時間は少し早めですが、チェックインも終わらせておきます。
 宿は駅舎の左手奥にありますからすぐにわかると思いますよ。」

次の電車が来るまでまだ2時間近くある。
せっかくだからカツラギさんの心遣いに甘えさせてもらおう。
でも一つだけ……

「……あ、あの、きっと僕の方が年下ですし、
 それに様付けで呼ばれ慣れていないので、
 ユヅキと呼んでいただいて構いませんから……」

だって、単なる貧乏大学生に様付けされても、何となく落ち着かない。
僕が下を向きながらそう言うと、カツラギさんは、
ん〜、でもお客様だし、と呟いた後、

「それではユヅキさんとお呼び致します。
 その代わりユヅキさんも私の事をシュウとお呼び下さい。」

と又しても微笑みながらそう言う。

「わかりました。
 ではシュ、シュウさん、荷物お願いしてもよろしいですか?」

真っ赤になりながら僕がそうお願いすると、
もちろんです、ではどうぞごゆっくり、
と言って軽く頭を下げ行ってしまった。
僕はその大きな背中を見送った後、
目の前に真っ直ぐに続いている線路の上を歩き始めた。
これが短いようで長い、長いようで短かった1週間の幕開けだった……