副社長室に呼び出された日以降、特に何があるわけでもなく
開店を目前に控えた店舗の最終チェックなどに追われながら、
相変わらずの忙しい毎日を過ごしていた。
もちろん呼び出し電話がかかってくる事もない。
会議がなかったので本社に行く事もなかったし、ソウの姿は
廊下や上のレストランで数回遠くから見かけたものの、
ソウは俺に気付く事はなかった。
シュウとは何度か電話で話をしたが、主に仕事の事やユヅキ君の
話などで、俺とソウについてはお互いに一言も触れなかった。
こうやって俺達は何もなかった頃の関係に戻っていく。
まるであの10年間がなかったかのように。


見合いを翌日の夜に控えた金曜日、俺は昼から半休を取っていた。
ソウへの気持ちに区切りをつける為、どうしても訪れておきたい
場所があったから。
何かあったら携帯に電話してくれとアイカワに告げ、社を出てから
2時発の電車に飛び乗った。

各駅停車ののんびりとした電車に揺られ、たまたま空いた席に
腰を落ち着ける。

あれから11日。
正直言って、気持ちの整理など全く出来ていなかった。
ソウとお互いの体温を交わすようになってから10年。
『結婚しろ』と言われて『はいそうですか』と簡単に言えるほど、
俺にとってのあの10年は軽いものではなかった。
けれど整理が出来なかろうがなんだろうが、ソウとの関係が
終わった以上、どこかで区切りをつけなければならない。

ふと窓の外に流れる景色に目を向けた。
真っ青に晴れ渡る空に、一筋の飛行機雲が横切っている。

そう言えばソウが7歳位の時だろうか。
二人で飛行機雲を眺めた事があったな。
『あの飛行機雲に乗れたらどっかに連れてってくれるのか?』
と聞くソウに、
『きっとソウが一番会いたい奴の所に連れてってくれるぞ。』
と笑いながら答えたんだった。するとソウが
『俺が一番会いたいのはコウだから、飛行機雲なんかいらないな』
と笑い返した。思いがけなかったその言葉にえらく感動して
『俺はずっとずっとソウのそばにいるからな!』
と必要以上に強い決意を込めて言った気がする。

クスッと苦笑が漏れた。
振り返ってみれば、既にあの頃にはソウに夢中だったの
かもしれない。

……けれど、もう二度とあの純粋な時代には戻れない。

『コウ』と囁く時の切なげな息遣い。
体中を這い回る熱い手と少しざらついた舌の感触。
俺の中に欲望の証を吐き出す時の、微かに漏れる隠微な声。

それら全てを知らなかった、あの純粋な時代にはもう二度と……

青空に吸い込まれるように少しずつ消えていく飛行機雲を、
震える下唇を噛み締めながら見上げていた。


****************


3時近くになって、電車は俺が目指していた駅に滑り込んだ。
こんな時間では降りる人間がパラパラとしかいない住宅地。
案内図にさっと目を通してから出口を目指し、駅前にあった小さな
花屋に入った。
さすがにどんな花が好きだったのかはわからないので、店員に頼んで
適当に小振りな花束を作ってもらう。
それを受け取って店を出てからのんびりと歩き始めた。

太陽の日差しはまだまだ強く、歩いているうちに汗ばんで来る。
この町に来る時はいつも車だったので何も考えずに駅を出たものの、
あまりの暑さにスーツの上着を脱いで腕にかけ、ペットボトルの
お茶でも買ってくれば良かったな、と少し後悔しながら歩き続けた。


駅前から30分近く歩いただろうか。
胸ポケットの手帳を取り出し、昨日アイカワに調べてもらった住所を
確認しながら、住宅街の奥にある小さな寺に着いた。
住職らしい愛想の良い人物に、目指す名前を告げて場所を教えて
もらい、水汲み場で手桶に水を汲んでからその場所を目指す。


辿り着いた場所にはそれほど年数が経っていないと思われる
木の塔婆が立てられており、表に筆で『霧島(キリシマ)家』と
書かれていた。
脱いでいた上着を羽織り直し、柄杓で水をかけてから塔婆の前に
先程買った花を供える。
しばらくそのまま眺めていたのだが、予想に反して恨みも妬みも
憎しみも浮かんでは来ず、不思議と落ち着いた心境でそのままそこに
しゃがみこみ、10年間身代わりをつとめて来た相手に手を合わせた。

……キリシマ教授。
俺では貴方の代わりはつとまりませんでした。
ソウの心に出来た傷を、癒してやる事は出来ませんでした。
ですが、やはりソウに昔のような笑顔を取り戻してほしい。
その為にはどうしたら良いのでしょうか?
お払い箱になった俺には、もうこれ以上どうにも
してやれないから……


「……すいません。
 もしかしてキリシマコウスケのお知り合いですか?」

突然声をかけられた事に驚きながら振り返ると、手桶を
持った白髪頭の壮年が立っていた。
50代後半ぐらいだろうか。
いうなればロマンスグレーという言葉が似合いそうな、
落ち着いた雰囲気の紳士だった。
慌てて立ち上がり、軽く頭を下げた後

「いえ、私は直接知り合いではなく、私の知人が昔お世話に
 なりまして。」

と答える。するとその紳士は少しの間俺を見た後、首を
傾げながら口を開いた。

「もしかして……コウ?
 いや、ナカヤマコウイチさんですか?」

「……何故俺の名を?」

『私』と言い換えるのも忘れ、目を丸くして問い返すと、
『貴方が……』と呟いた後に俺に微笑みかけてきた。

「もしお時間が許せば、少しだけお話をしませんか?
 この近くに私がやっているカフェがあるのですが、
 お茶が美味しいと結構好評を頂いているのですよ。
 一度貴方とお話したいと思っていたのですが、どうですか?」

何が何だかわからなかったが、何故だかこの人の話を
聞かなければいけないような気がした。
俺は頷き返すと、教授の塔婆に水をかけて手を合わせ、
嬉しそうに歩き始めたその紳士の後に付いて行った。