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自宅マンション前に着いたので、明日の迎えの時間を
確認した後車を返した。
そのまま18階にある自分の部屋に戻り、手早くスーツを
脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。そしてバスローブ姿のまま
サイドボードのコニャックを取り出して、いつものグラスに
注いだ。
35年物のこれは俺のお気に入りの一つ。
力強くスパイシーな香りを嗅ぎ、濃厚で繊細な味わいを
堪能しながらソファに身を沈める。


最初にホテルに連れて行かれた後は、数え切れない程の
呼び出し電話に応じてきた。
ソウはもう泣く事はあまり無かったが、それでも『コウ』と
囁きながら俺を抱き続け、そしてそれと比例するようにどんどん
声を取り戻していった。
簡単にはその傷を癒してやれない自分の不甲斐無さにもがき
ながらも、その様子を見て、身代わりをつとめる道を選んだ事が
少しは役に立っているのかもしれないと思っていたのに。
そしていつかまたあの笑顔を見る事が出来るかもしれないと
思っていたのに。
だがそれは無理だったようだ。
俺の祈りは届かなかった……

コニャックを口に含み、テーブルの上に
置かれたままになっていた見合い写真を開いた。

着物を着て控え目に微笑んでいる、おとなしそうで綺麗な女性。
確か年齢は27歳だと聞いた気がする。
俺はこの女性と結婚するのかもしれないな。
他人事のようにそう思った時、スーツに入れっぱなしにしていた
携帯が鳴り出した。
一瞬ソウの顔を思い浮かべたものの、もう二度とかかってくる事は
ないのだとすぐにその考えを打ち消し、携帯を手に取る。
ディスプレイに書かれた文字は『宗(シュウ)』だった。

「はいよ〜」

そう言って電話に出ると、クスッと笑うシュウの声が聞こえた。

『結構飲んでいるようですね。』

「まあな〜。接待だったし。それにしてもどうしたんだ?
 今の時間ならユヅキ君と一緒なんじゃないのか?』

『えぇ。ユヅキさんはここにいますよ。
 代われと言われても代わりませんけどね。』

「はいはい。
 無駄な台詞を言う手間を省いてくれて助かるよ。
 で?そんな貴重な時間にかけてくるなんて、何か用事でも
 あるのか?」

『別に用事という訳ではないですが……
 昼間のソウの話がなんだったのか、少し気になりましてね。』

シュウが心配してくれていた事を思い出した。

「あ〜、連絡しなくて悪かったな。
 別にたいした事じゃない。
 人選がOKだって事と、俺の見合い話だけだ。」

『見合い?コウがお見合いをするのですか?』

シュウが心底驚いたように言う。

「あぁ。俺はお前みたいに決まった相手がいないから、
 そろそろ結婚でもして落ち着こうと思ってさ〜。
 サカモト社長の娘と来週の土曜に会う事になってるよ。」

『……ソウはなんて?』

「ん?結婚しろって。」

思わず手が震えそうになったので、俺は携帯をギュッと
握りなおし、コニャックを一口飲んだ。
シュウが電話口の向こうで小さく、全くあの子は……、と
言っているのが聞こえる。

『……コウ。
 貴方がどんな人生を選ぼうが貴方の自由です。
 弟であるソウにも同じ事を思っていますが、今だけ
 一言言わせて下さい。
 どんなにうまく取り繕って周りを騙せても、自分で
 自分の気持ちに嘘はつけないでしょう?
 何故きちんとお互い向き合って話をせずに、わざわざ
 コウ自身が不幸になる道を選ぼうとするのですか?』

「お、おいおい。
 俺はこれから綺麗な奥さんと可愛い子供達に
 囲まれようとしているんだぜ?
 一体それのどこが不幸なんだよ〜?」

シュウが言っているのはそんな事ではないとわかっている。
けれど俺が今までソウに何も話そうとしなかったのは、たとえ
身代わりではあっても、俺を捕らえるあの熱い手を失うのが
怖かったからだ。
ソウが何故話をしなかったのかはわからないが、どちらにしろ
昼間の時点で俺とソウの間に続いて来た関係は終わり、既に
あの手を失ってしまった。
それなのに、今更ソウと何を話せというのか。
それに昼間のやりとりを、俺はまだ自分の中で処理出来ていない。
だから今の段階で答えられる言葉は何も浮かばなかった。

『……はぐらかすつもりならそれはそれでいいですが、
 その代わり私が言った台詞を忘れないでくださいね。』

シュウは溜息を吐いた後にそれだけ言って話題を変えた。
その後2、3仕事について話してから、俺達は電話を切った。


携帯をソファに放り投げ、そのまま残りのコニャックを一気に
飲み干す。

もっともっと酔いがまわればいい。
散々酔っ払ってしまえば、泣く事だって出来るかもしれない。
そして涙と共に、ソウへの気持ちも俺の祈りも
全て流してしまえばいい……

なのに何杯飲んでも、こんな時に限ってまったく酔いは
まわって来ない。
シュウはユヅキ君という泣ける場所を見付けた。
けれど俺が泣ける場所などどこにもなく、いつも独りっきりで
唇を噛むだけだ。
ソウに抱かれながら、心の中で涙を流す以外は……


いつまでもまわってこない酔いに少し苛立ちながら、
グラスの中で揺れる、何杯目かの琥珀色の液体を見詰める。
そしてどこか冷めた頭の中で、ソウの熱い手をいつまでも
思い出し続けていた。