黒くなって見えた場所は、決して汚れていたりペンキや何かで
色を塗られていた訳ではない。
それは自分の席から振り向く度に何度も見た事のある、少し
斜めに傾いていて、ちょっとだけ角が取れている文字達。
……ぎっしりと小さくシャープで書かれたツカサ君の日記……
濃い茜色に染まり出し薄暗くなりかかっている空の下で、
その場所を見失わないよう震える指先で懸命に辿る。
『9/12
昼寝から覚めると足元で気持ち良さそうに寝ている
橋本(ハシモト)がいた。
状況が良くわからずまじまじ見ている内にアラームが
鳴り出し、音を止めようと思ったのだろう橋本の小さな手に
腕を掴まれた。
橋本も驚いて赤くなりながら言い訳していたが、
正直俺の方が驚いた。』
あの時の事を思い出してふふっと笑いが漏れる。
ツカサ君はすごく冷静だと思ってたのに。
そんなに驚いていたなんて意外だったな。
『9/13
昨日言っていた台詞は冗談だろうと思っていたのに
今日も橋本が来た。
その上190もある俺にまだまだ成長期だからと真剣に
言って、160の橋本が自分の昼飯を差し出してくる。
思わず笑ってしまったがなかなか面白いヤツだ。
その後コンクリートに頭を置いている姿を見た時、
勝手に体が動いてその軽い頭を脚にのせていた。
自分でも何故あんな事をしたのかわからない。
でも一緒に見上げた空と橋本の赤くなった顔が妙に
印象的だった。
いつものように柔道部を見ようと道場を眺めたものの、
どうやら今日は柔道部は休みらしい。
だから何となく隣の空手部を見ると橋本がいた。
さっきから橋本をずっと眺めているが、片時も休む事無く
動きまわっている。
あの小さくて華奢に見える体のどこに、あんなスタミナが
隠れているのだろう?
いつも元気で明るくて子供の様で、あの純粋さを見ていると
周りの奴らが何故橋本に惹かれるのかわかるような気がする。』
思わず真っ赤になって、右手で髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
……ツカサ君が放課後ここから僕を見ていたなんて、全く気が
つかなかった。
僕、変なことしてなかったかな?
ツカサ君も教えてくれれば良かったのに……
『9/27
最近は教室にいても、いつの間にか目の前にいる橋本の
小さな背中ばかりを見ている。
その上橋本がここに来るまでの時間が待ち遠しい。
今日の昼はバタバタと階段を駆け上がって来ていた。
あれだけ人気があって目をつけられている存在だから、
色々大変な事もあるだろう。
何もなかったというのが本当ならいいんだが。
橋本の膝枕に頭をのせていると、何故か赤くなりながら
俺を見下ろしていた。
だからなんとなく橋本の様子が気になって寝たフリを
していたら、突然髪を触られ本気で驚いた。
でもその感触が気持ち良かったせいでウトウトとし、
そのまま寝ようと寝返りをうった後、こめかみ
あたりに微かに何かが触れる感触がした……
……あれは橋本の唇?』
ババババレちゃってたのっっ?!
僕はツカサ君の日記を読みながら、一人で赤くなったり
青くなったりしていた。
『9/29
学祭の出し物を決めた時は真っ先に高梨(タカナシ)の
意見に賛同した。
橋本が嫌がっているのがすぐにわかったから。
高梨の意見はいつ聞いても納得がいく。
多分考える事が似ているのだろう。
俺の学生生活の最後になる学祭までは、橋本と一緒に
動ければいいと思っていたので大道具に立候補した。
橋本と一緒なら毎日楽しく過ごせそうだ。』
……そんな風に思ってくれてたんだ。なのに……
『10/3
今日の昼は橋本の様子が少しおかしかった。
4時間目が終わる時はいつも通りだと思ったし、ここに来る時間が
少し遅かったからその間に何かあったのかもしれない。
けれど橋本は何も言わないので、いつも通りに膝枕をしながら
学ランを掴んで来た橋本の小さな頭を撫で続けた。
色々動いているうちに眠りについたのがわかって少し安心
したものの、橋本に何か起きているのだろうか?
今はあの小さい体とバネを生かした攻撃を繰り出しながら、
自分よりでかいヤツに立ち向かっている。
毎日ここから部活をやっている姿を眺めている限り、そうそう
簡単に橋本に手を出すバカはいないとは思うが、万が一
何かあった時は可能な限り守ってやりたい。』
左手の人差し指でツカサ君の日記を辿りながら、
震える右手の拳を握り締めて口に当てていた。
『10/5
タカナシに言われた通り、ベニヤ板を取りに橋本と倉庫に向かった。
ご機嫌で俺の前でスキップしている橋本の体も影も、俺の
影の中にすっかり隠れてしまっていた。
あんなに小さい体で自分よりでかいヤツに向かって行くんだから、
相当な負けん気と意志の強さが必要だろう。
たとえ何があろうと、いつまでもそれを持ち続けて欲しいと願う。
それを守る為なら何でもしてやりたいと、心底思った。』
日記はそこで終わっていた。
ツカサ君が『全部俺がやった事にする』と言って僕を守ってくれた
裏には、こんなに沢山沢山の気持ちがあったんだ……
読み終わるまでにどれ位の時間が経ったのかはわからないし、
夢中で読んでいたから気が付かなかったけど、さっきまで茜色に
染まっていた筈の空には、既に夜のとばりが下りかけている。
唇を噛み締めて、体を起こそうと視線を床から少し上に
上げた時、錆びた給水塔の一番下にマジックで小さく
『10/7』と書かれている文字が目に入った。