……ふと我に返った時、僕の目の前には鼻からも口からも
血を流して、床の上に転がっているヨシナガ先輩がいた。
息をしているのかどうかもわからない……

それに気付いた途端、急にガタガタと体中が震えだし、その場に
うずくまりそうになる。
するとその時用具室のドアがドンドン叩かれている音が耳に入った。
そしてそれと共に『ハシモト!ハシモト!』というツカサ君の声も……

ドアに近付き、血の付いている震えた両手でなんとか鍵をあける。
それと同時に勢い良くドアが開けられ、ツカサ君が入って来た。
ツカサ君はすぐにドアをしめ、震える僕の全身を見回して拳以外に
怪我がない事を確認すると、少しだけホッとした様な表情をした。
だけどすぐに厳しい表情に戻り、床に転がっている先輩に近付いて
腰を落とす。

先輩の状態を確認していくツカサ君の様子を、閉じられたドアに
寄りかかり、先輩の血と自分の拳が切れた血とで汚れた両手を
口に当てながら見ていた。

少ししてからツカサ君が

「歯と肋骨位は折れてるかもしれないが、多分大丈夫だ。
 でもどちらにしろ病院に運ばないと。」

と言って立ち上がりながら僕の方を振り向いた。
よく見てみると、ツカサ君自身も学ランのボタンが飛んでいたり
口の端から血を流したりしている。
きっと先輩が言っていた通り、5人の人達に襲われたんだろう。
そう思った瞬間涙が噴き出して、ドアに背中を預けたままその場に
座り込んだ。

「ごめんねっ……ごめん……ね……っ」

僕のせいで怪我をさせたツカサ君にも先輩にも謝りたかった。
こんなつもりじゃなかったのに……
僕はただツカサ君と一緒にいたかっただけなのに……


泣きじゃくる僕の目の前にツカサ君がしゃがみこむ。

「ハシモトが謝る必要は一つも無い。
 悪いのは100%相手なんだし、ハシモトに殴られても
 仕方が無いだけの事をしたんだから。
 それに俺もなんともない。
 だから今あった事を全て忘れるんだ。」

そう言って僕の髪をくしゃっと一度撫でた後

「……時間が無いからよく聞いてくれ。
 ハシモトは服を直して手と顔を洗い、その血を取った後
 下の英語準備室にいるヨドカワに、屋上の方で何か
 音がする、と伝えるんだ。」

と言う。
ツカサ君の台詞の意味がわからず、一旦涙を止めて
ツカサ君を見返した僕に、真剣な目で更に言う。

「昼を食べようと思って来てみたら変な音がするから、
 そのまま引き返して報告に来た、と。
 決して何かを見たとかしたとか言うな。
 それから手は隠しておけ。」

「な、なんでそんな嘘?」

「全部俺がやった事にする」

……え?
今、ツカサ君は何て言ったの?

だけど一瞬間を空けた後、僕は勢い良く立ち上がった。

「そ、そ、そんな事出来る訳ないじゃないっ!
 元々は僕が全部原因でしょっ?!
 ツカサ君はただとばっちりを受けただけだし、
 その上先輩は実際に僕がやったんだ!
 それなのにそんな嘘つけないよっ!」

するとツカサ君も立ち上がって、大きな両手を
興奮している僕の両肩にそっとかけた。

「……ハシモト、ちょっと落ち着け。
 俺は既に屋上で5人やってからここに来ている。
 だから今更1人増えた所で処分なんかたいして変わらない。
 それにこの先輩はハシモトが好きだったんだから、
 冷静になれば口裏ぐらい合わせてくれるだろう?
 元々仕掛けたのはこっちじゃないんだし、それさえはっきり
 すれば俺の処分も停学ぐらいで済むから。」

「だけどっ!」

「たとえ仕掛けたのはこっちじゃなくても、ただの喧嘩として
 報告すれば、これはやりすぎだと判断されるだろう。
 そうなれば空手部全員が大会出場取り止めだの何だのと
 困るだろう?
 かと言ってハシモトがこの先輩からされた事を正直に話せば、
 すぐに嫌な噂が広がって、ハシモトが傷付くのは目に見えている。
 被害者であるハシモトが、そんな噂のせいでこれ以上辛い思いを
 する必要はないんだ。」

「でもっでもっっ!!」

ぶんぶん首を横に振って納得いかない事を訴える。
すると

「……シノブ」

と、突然あのハスキーな低い声で名前を呼ばれた。
そしてそれと同時にツカサ君が体を屈めて抱きしめて来る。

大きくて温かい体に包み込まれた途端、先輩のあの気持ち悪い
感触や、怒りに駆られると何をしでかすかわからない自分への
恐れや、怪我をさせてしまったツカサ君と先輩に対する申し訳なさや、
何もかもが一気に爆発したように僕の口からは咆哮が漏れる。
そして全ての感情の行き先を求めて泣き叫びながら、ツカサ君の
胸にすがり付いた。


僕が散々泣きじゃくる間、ツカサ君は黙って腕の中に僕を
囲い入れて、大きな手で頭を撫で続けてくれていた。
大きくて温かい腕の中で、僕の中に澱のように溜まり
始めていた恐怖や不安が、あっという間に消えていく
気がする。

やっと激情が通り過ぎた頃、相変わらず頭を撫でて
くれながらツカサ君が口を開く。

「……大丈夫。俺が守るから。
 だから、頼むから俺の言う通りにしてくれ。
 間違いなくそれが一番いい方法だから。
 もう昼が終わる。
 この先輩も早く病院に運ばなければならない。
 何度も言うようだが時間が無い。」

その言葉にツカサ君の胸に埋めていた顔を離して、いつもの
曇りの無い透明な目を、涙で滲んだ視界のまま見上げる。
ツカサ君は少しだけ僕を見詰め返した後、突然視線を逸らして
体を離し『早く行け』と言った。
そしてその言葉と大きな手に押されて用具室を出されてしまう。


様々な気持ちが錯綜している上、あの温かい体から離れた
瞬間にまた不安感が増して来て、せっかく止まった涙がまた
頬を流れ落ちるのを感じながら階段を駆け下りた。

「……えっ……えっ……」

ひたすら泣きじゃくりながら、ツカサ君に言われた通り
階段を降りた先にあるトイレで顔と手を洗った。
そしてそのまま英語準備室の中に飛び込む。
そこではヨドカワ先生がコーヒーを飲みながら本を読んでいた。
制服を直し忘れていた僕の様子を見て、慌てたように
『どうした?』と言いながら立ち上がった先生に

「……屋上……助けてっ……」

とだけ告げると、先生の顔を見て気が抜けたようにへたり込み、
そのまま真っ暗な闇に落ちて行った。