翌日、お昼休みに病院に来て下さいとリョウに言って、いつも
通りに出勤した。
病院では患者さんの間でもスタッフの間でも、やはりイチカワ君の
噂があちらこちらでコソコソと囁かれていた。
それはそうだろう。
先日までは特殊な経歴を持つ、有能な研修医として働いていた
人が、突然ヤクザの組長と一緒に遺体で見付かったのだから。
噂というのはどんなものであれあまり聞いていて良い気持ちに
なる物ではないけれど、でも今日は日勤だけだから、と小さく
溜息を吐いて全てを聞き流した。
午前中のちょっと空いた時間を利用し、半袖のケーシーの上に
通常の白衣を羽織ったいつもの姿のまま病院の近所の商店街に
ある花屋に行った。
そして花の事は全然わからないので、巻き毛で肌が白い少年の
様な店員さんに 『亡くなった方に贈りたいのですが』 と相談
したところ、一生懸命頭をひねって考えてくれた後【紫苑】という
花を勧めてくれた。
『この花には、貴方を忘れない、という花言葉があるから
いいと思うんですけど』 と言って。
薄紫色で素朴な感じの花。
怒涛のような短い人生を送ったイチカワ君には、こういう素朴な
花が良いのかもしれない。
それに花言葉なんて今まで気にしたことがなかったけれど、それも
今の私の心境にとても合っている気がした。
『最上の花を選んでくれてありがとう』
微笑みながらお礼を言うと、その店員さんは頬を赤く染めながら
恥ずかしそうに 『どういたしまして』 と頭を下げた。
そして手早く花をラッピングしてくれ、店内を見ている私にそれを
渡してくれてお金を受け取った後、1本だけ新聞紙に包まれた
オレンジ色のバラを 『もし良かったら』 と言ってそっと差し
出して来る。
「これサターンっていうバラなんですけど、元気っていう
花言葉があるんです。
だから貴方に元気を出して欲しいなって。」
亡くなった方、という言葉を気にしてくれたのだろう。
ただの飛び込み客である私に、そこまでの心遣いをしてくれる事が
心底嬉しかった。
少年の様な印象でありながら妙に達観した大人の光を湛える瞳を
持ち、こんな若さでここまでの気を他人に使えるこの店員さんは、
きっと辛い経験を持ちながらも、今は誰かに大切に守られて幸せに
暮らしているのだろうと想像がついた。
「細かい気遣いを、本当にありがとう。
貴方のように心が細やかで健気な人なら、きっと彼氏は
貴方を大事に守り、甘やかさずにはいられないのでしょうね。」
真心のこもった花をありがたく受け取りながら微笑んで言葉を
かけると、店員さんはただでさえ大きめな目を更に大きくして
『何故彼氏がいるってわかるんですか?』 とまるで超能力者
でも見るように私を見る。
その様子があまりにも可愛くてクスクス笑いながら答えた。
「それなりの人生経験があるのと、私と同じ痕がいくつも
見えますから。」
ケーシーの首周りを少しだけ引っ張り、『ね?』 と言いながら
昨日リョウにつけられた首の痣を見せると、まじまじとそれを
見た後、真っ赤になりながら店の奥にある鏡の前に飛んで行く。
「これからは時々花を買いに来る事にしますね」
と笑いながらその背中に声をかけて店を後にした。
病院に戻った私は私室に1本のバラの花を飾り、スタッフとの
打ち合わせを終えてから患者さんの為に設けられている温室の
隅に、ラッピングされたままの花束を埋めに行った。
本当は線香代わりに燃やそうかとも思ったのだけど、それよりも
理由はどうあれイチカワ君が一度は目指した医師という道に近い
場所に置いてあげたかった。
少しの間目を閉じて両手を合わせ、イチカワ君の冥福を再度
祈ってから、通常通り業務に戻った。
来週行なわれる手術のチームミーティングを終え、そろそろお昼に
しようかと広いロビーを歩いている最中にリョウの姿を見かけた。
スタイリッシュな仕事用のスーツとは違い、いつもよりカジュアルな
ジャケットを羽織ったリョウは、ロビーの隅にある4人掛けのベンチに
座り、隣のモモちゃんの話に耳を傾けている。
それを微笑ましく思いながらそちらに近付いていくと、私に気付いた
モモちゃんが 『ハルカせんせ〜!』 と思いっきり手を振ってきた。
「今日はたくさんリョウとお話出来たの〜!」
目をキラキラさせながら嬉しそうに笑い、『それは良かったですね』
と笑いかけると、『うん!』 と元気に返事をしながら 『それでね、
それでね』 とリョウの方に向き直って幼稚園で同じクラスの子達の
話を始める。
リョウはモモちゃんの隣で頷きながら話を聞いていた。
そして薬を貰ったお母さんが戻って来るのを見て、松葉杖をついて
立ち上がり 『リョウ、また来週ね!ハルカ先生、今度モモが描いた
先生の絵を持ってくるね!』 と手を振って行ってしまうモモちゃんに
二人で手を振り返した。
「なんだか恋人同士のようで、少し妬けますね」
ベンチから立ち上がったリョウと、処置室に向かって一緒に歩き
だしながら苦笑する。
すると私の言葉にクッとリョウが笑った。
「モモは相変わらずハルカに夢中だからな。
少しは矛先を他に向けさせないと、俺の立場が危ういだろう?」
それにクスクス笑いながら返す。
「お互いにライバルがモモちゃんになりそうですね」