「今帰った」
真っ直ぐ私を見詰めながらリョウはこちらに向かって来る。
ここに戻る前にシャワーでも浴びたのだろう。
スーツは着替え用で持っている物の一つだったし、いつも
整えている髪は濡れたままで乱れている。
それを見て、やはりリョウが直接朱雀を手にかけたのだろうと
わかった。
返り血を浴びたのだろうリョウの姿が目に浮かび、失われた
朱雀の命を思ってとても胸が痛む。
けれどリョウだって決して何も思わなかった筈はない。
私はデスクチェアから立ち上がってリョウに歩み寄った。
そして少し震えて冷たくなっている指先で、目の前にいる
リョウの存在を確かめる様にそっと温かい頬を撫でる。
「随分遅かったですね。
待ちくたびれて、すっかり眠くなってしまいましたよ。」
微笑んだまま言葉を紡ぐと、リョウは少しだけ驚いた様に
私を見た後、いつもは鋭いその瞳を一瞬優しく震わせた。
そして頬に触れている私の手を温かい両手で握り、目を閉じて
片方ずつゆっくりと掌に口付けてくれる。
お互いの心に去来する思いは、お互いによくわかっている。
けれど今はそれを口にする時ではない。
今はいつもの日常を取り戻す時。
「これ以上ハルカをここの奴らの目に触れさせたくない。
だからやるべき事をさっさと終わらせ、続きは帰ってからだ。」
私の思いに気付いたのだろうリョウが、いつものリョウらしい
台詞を口にしながら軽いキスをしてくれる。
その温かい感触にふるっと小さく身を震わせた。
そしてクロタニさんの台詞を思い出してクスッと笑い、
「楽しみにしています」
と返した。
****************
その後私とリョウはもう一度クロタニさんの部屋に行った。
先程リョウ達がクロタニさんの部屋に訪れたのは、ただ
戻って来たという挨拶だけだったらしく、詳しくは私も含めてと
クロタニさんが言ったらしい。
そして一連の流れを全て話すように言われたケント君が
説明を始める。
私とリョウが並んで座り、正面にクロタニさん、クロタニさんの
斜め後ろにサイドウさん、私の斜め後にトキ君、リョウの斜め
後ろにケント君が座っている。
少し視線を下げ、紫檀のテーブルを見詰めながら、ケント君の
話を黙って最後まで聞き続けた。
話が終わり、クロタニさんが口を開く。
「リョウヤもケントもご苦労だった。
今日はこのまま帰り、後の始末はサイドウに任せて
連絡を入れるまではヒマを取らす。
だが何かあればすぐに動けるようにはしておけ。」
その言葉に全員で頭を下げる。
そして『本当に色々お世話になりました』と私が
クロタニさんに挨拶すると、
「ハルカ、リョウヤに飽きたらいつでもわしのところに来い」
と笑いながら声をかけてくれる。
クロタニさんは今の私の辛い心情をわかって、励ます意味で
軽口を叩いてくれているのだろう。
リョウが黙ったまま向けてくる視線を意識しながら、クロタニ
さんに微笑み返した。
「ありがたいお言葉で光栄です。
けれど内紛が起きても困りますし、私がリョウに飽きる事は
有り得ませんので、どうぞその心配はご無用に。」
リョウは優しく少し目を細め、ケント君は口をポカンと開け
て、対等に言葉を返した私を見ている。
そしてクロタニさんとサイドウさんはクックと笑い、トキ君は
下を向きながら肩を震わせていた。
****************
私とリョウをトキ君が送ってくれる事になり、いつものリョウの
黒い車に乗り込む。
静かに滑り出した車中では誰も言葉を発する事は無かった。
行きとは違う明るい窓の外を眺めながら、先程のケント君の
話を思い出す。
……朱雀がイチカワ君だった事は、私に少なからず驚愕と
心の痛みを与えた。
少し変わったところはあったけれど、若く、頭脳明晰で、
これから先有能な医師としてどんどん成長していって
欲しいと心から思っていた。
けれどその存在は、今はもう、無い。
イチカワ君と8年前に会った記憶は、申し訳ないけれど
今言われてみればそんな事があったようななかったような、
という曖昧なものだった。
私がイチカワ君と再会した時に思い出していれば、事態が
少しは違う方向に動いただろうか。
……違う。
そんなのは私の傲慢な思いあがりだ。
だったらそこまで私を思ってくれていたという事実を
謙虚に受け止め、これから先イチカワ君の冥福を祈り
続けていこう……
隣のリョウに視線を移すと、左手を座席に投げ出し、
右手でドアに頬杖を付きながら窓の外を眺めていた。
私はそのリョウの左手に、そっと自分の右手を重ねる。
リョウは窓の外に視線を向けたまま私の手をしっかりと
握ってくれた。
……私の決意も覚悟も今の思いも全てわかった上で、
今はわざとに私の方を見ないようにしてくれているの
だろう……
余計な謝罪や言い訳の言葉など一切口にせず、黙って
こういう時間を与えてくれるリョウの気遣いが嬉しかった。
リョウの温かい手をギュッと握り返しながら、また視線を
窓の外に戻す。
そして私は唇を噛み締め、一筋だけの涙を静かに流した。