翌日からヒロの家での生活が始まった。
邪魔にならない、家のどこか隅にでも寝かせてもらえれば充分だと言ったのにも関わらず、
これ以上何もしないから安心しろと言って、毎晩手を繋ぎながら一緒のベッドで寝かされた。
そうやって軽いスキンシップぐらいはあるものの、約束通り、ヒロは俺に一切手を出してこない。
そして俺は、とても大人だったり時々子供のようにふざけたり、次々と色んな顔を見せてくれるヒロに、どんどん夢中になる自分を止められなくなっていった。
俺の体を通り過ぎて行った数々の客達の中にもそれなりに優しかった人もいた筈なのに、ヒロが俺に向けてくれる優しさは違う。
具体的にどこ、と問われれば明確に答えを出す事は出来ないけれど、多分、計算のない、無条件な優しさだろうか……
やっぱりヒロがいない間に家にある物を勝手に食べる事は出来ず、ヒロが会社に行くのを見送った後に借りた合鍵を使って家の鍵をしめ、毎日近くの公園に行った。
買いたいものがあったら好きなように買うといいと言って渡してくれたお金は食卓の上に置いたまま、夕方だろうが夜中だろうが、会社から帰ってくるヒロの姿が見えるまでその公園で待ち続ける。
そしてその姿が見えると同時に走り寄って家に入れてもらい、ヒロと一緒にご飯を食べた。
その度にヒロは苦笑しながら 『家で待っていればいいだろ?』 と言ってくれるんだけど、どうしてもそれは出来ない。
ヒロと毎日一緒に過ごせる時間があるというだけでも考えられないほど贅沢なのに、その上に暖かい家の中でヒロの帰りを待つなんて、そんな幸せな事が訪れてしまったら、次は一体どんな罰を受けるかわからない。
相変わらずヒロは頭を撫でてくれたり頬を撫でてくれたり、少しおどけながら色んな話をしてくれたりして、その度にどう反応していいのかわからなくて戸惑う俺を見て、また 『可愛いな〜』 と言いながら優しく微笑んだ。
その事が嬉しかったり照れ臭かったり幸せだったりするのにもかかわらず、人から好意を表してもらう事に慣れていない俺はそうされる毎に抑えられないほどの恐怖心が増してくる。
そして 『いつ罰が当たるのだろう』 と毎日が怖くて怖くて堪らなくなり、ついには 『いつ逃げ出そうか』 とそればかりを考えるようになっていった。
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「仁志、ちょっと話をしないか?」
ヒロがそう切り出したのは居候を始めて1ヶ月を越したあたりの金曜の夜。
頼んでくれたケータリングの夕食を終え、食卓の上を片付けていた俺に話しかけた声は、いつものおどけた様子とは違う、真剣なものだった。
ヒロのお気に入りであるクリスタルのグラスにいつものワインを注ぎ、ソファに座ったヒロに渡して隣に座ると、またいつもの様に優しく笑いながら頬を撫でてくれる。
だけど俺は恥ずかしさと恐怖心とですぐに目を逸らしてしまった。
「なぁ仁志、何がそんなに怖い?
何をそんなに恐れている?
ここしばらくのお前を見ていると、今にもこの家から逃げ出して
しまうんじゃないかと、俺の方が怖くて堪らないんだ。
会社にいる間は、お前がいつも通り俺の帰りを待ってくれている
だろうかと不安で堪らない。」
……俺がいなくなる事を、何故ヒロが怖がったり不安に思ったりするんだろう?
「付き合おうと言った理由を話すと言っただろ?
……仁志に一人の間抜けな男の話をしよう。」
そういえば俺とヒロって付き合ってたんだっけ、と思いながら首を傾げていると、
既に顔が隠れるほど伸びている俺の髪をヒロがかきあげて顔を出させながら、グラスに入ったワインを一口飲んだ。
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「その男は数年前、苦労してやっと取り付けた大事な商談を
控えたある夏の夜、会社があるビルと隣のビルの隙間で
膝を抱えて震えている、小学生か中学に入りたてぐらいの
少年を見つけた。
時間がないからどうしようか迷ったが、ジロジロと不躾な
視線を向けながらも誰も声をかけない様子を見て、結局男は
その少年を放っておけずに声をかけた。
当然事情があって家を出て来たんだろうと思ったから、なん
とか元気付けたくてたまたま持っていた飴を渡したが、その
少年の様子を見ていて、人から好意的な態度を受ける事が
初めてだったのかもしれないと思った。
男は元々未成年者に手をつける趣味はない。
だから邪な気持ちなど一つも無かったものの、必死で牽制を
はりながらも心細そうなその少年の傍にもう少しいてやりたい
と思ったのは嘘ではなかった。
けれどどうしても商談には遅れるわけにいかない。
結局その男は後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。」
ワイングラスをテーブルに置くと、節くれだつ長くて男らしい指で眼鏡を外してその横に置き、自分の両膝に肘を突いて一度両手で顔を拭う。
まさかヒロがあの時の事を覚えていたとは夢にも思っていなかったので、あまりにも予想外の話に頭がさっぱり付いて行けず、場違いなほど冷静に、ヒロが眼鏡を外す仕草って何故かドキドキするんだよな、と思いながらその様子を眺めていた。
「商談が無事終わった後、どうしても気になってあの場所を
訪れてみたが、その少年は既にその場にいなかった。
家に帰ったのだろうとホッとした気持ちと、もしかして
誰かに連れ去られてはいないだろうかと心配する気持ちが
半々だった。
そしてその後、男の頭からその少年の姿が消える事は
なかった。
怯えたようにしながらも、何かもの言いたげな瞳。
そんな歳で孤独な影を身に纏いながらも、しっかりと見返して
くる瞳の強さ。
あの少年は元気でいるだろうか。
あの時にもう少し一緒にいてやれば、少しは孤独から救い
上げてやれただろうか。
そう思いながら、それからは路地裏やビルの隙間を見る度に
またあの少年が震えてはいないだろうかと覗き込まずには
いられなくなった。
数年経ち、ある路地裏で似た様な瞳を持つ少年を見付けた。
違う人物だとはわかりながらもどうしても放って置けなかった。
そしていつの間にかその瞳に同じ影を重ねて見るようになって、
男は路地裏で見付けた少年に夢中になった。
同じ路地裏に求めていた少年がいたにも関わらず、それに全く
気付かなかったなんて、ホント、間抜けだよな……」
……森と俺を重ねて見ていたって事……?
「今から数週間前、同僚がその男にある告白をしてきた。
男を振ったその子を自分のモノにしたいと思っているが、
認めてくれるか、と。
当然男は驚いたものの、もしかしたらその同僚ならその子を
幸せにしてやれるかもしれないと思った。
だから振られた数日後だったにも関わらず、その子が幸せに
なってくれればいいと心底喜びながら、俺の代わりに頑張って
くれよ、と同僚に告げた。
その男がそこまで喜べたのには訳がある。
ずっと追い求めていた少年が男の前に現われてくれていた
からだ。
見た目は随分変わっていたし、以前の事を全く口にしようとは
しないものの、夢にまで見たあの時と同じ瞳と目尻にある
ほくろを見て、男にはその少年が自分が求めていた存在
なのだとわかっていた。」
ヒロは手を伸ばしてワインを一口飲むと、またグラスを静かにテーブルの上に戻した。
「必死で追いかけて顔を見せてくれた瞬間にその子の正体に
気付いた男は、自分の間抜けさに心底呆れながらも、路地裏の
少年に向けていた思いが、実は忘れられないその少年に向けて
いた思いだったのだと悟った。
そして一緒にいればいるほどその少年の純粋さや不器用さや
一途さや、言い尽くせないほどの色んな面に、その男は日々
惚れ込み続けている。」
一言も言葉を発しない俺の目尻にあるほくろを、ヒロは親指で撫でた。
「これが俺が付き合おうと言った理由だ。
だけどそれをすぐに言わなかったのは、自分自身心の整理が
必要だと思ったし、それにお前が以前の事に一切触れようと
しなかったから。
何か事情があるんだろうと思ったから、焦らず、一緒にいる
間に俺が本当にお前を大切に思っている事をわかってもらって、
お前の方からその話をしてくれるまで待とうと思っていたんだ。
でもこのまま待ち続けていたら、きっとお前は何も言わずに
俺の前から姿を消してしまうだろ?
……なぁ仁志。
何故以前の事を口にしようとしないのか、お前が今まで
どんな風に生きてきたのか、少しでもいいから俺に教えて
くれないか?」