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話を飲み込むまでにしばらくの時間を要した俺を、ヒロは黙ったまま待ち続けてくれている。
そして少しずつ少しずつヒロの言葉の意味を理解しようと努めながら、眼鏡のレンズを挟まない、真っ直ぐで熱い視線に突き動かされるように口を開いた。


今では虐待という言葉がわかる、その行為を受け続けてきた事も、ヒロとの初めての出会いも、その後の監禁生活も、生きる為に体を売って生活してきた事も。
何故自分の手が形を変えてしまったのかも、森を買い続けていくヒロをずっと見つめていた事も、何故以前の事を言えなかったのかも、あの幼い頃に見たひまわりの記憶も、全て全て、思いつく限り全部。

微かに震えている自分の膝に視線を落として、たどたどしく、長く長くかかる支離滅裂な話をしている俺を、ヒロは黙ったまま横顔を見守りながら聞いてくれた。
そして話し終わって一度大きく深呼吸した俺と一緒に、静かに溜息を吐く。


「……仁志、俺を殴ってくれよ」

「?」

突然の台詞に驚いて、思わずヒロの方を見た。

「お前がどれだけ辛い思いをしてきたのか、
 どんなに苦しい思いをしながら俺を見ていてくれたのか、
 何一つ理解してやる事が出来ないまま、俺はのほほんと
 毎日を過ごしてきた。
 だから、今更だけど少しでもその痛みを俺に分けてくれ。
 そしてお前が本当に心で思っている事を俺に見せてくれ。」

ヒロはそう言ったけれど、当然俺がヒロを殴れる筈などない。
それに俺が受けてきた体の痛みも心の痛みも全て俺だけの問題だし、 心を見せてくれと言われても、今俺は全部を話した筈なのに……

何も言えずに怪訝な顔をしていると、膝に置いていた左手をヒロが両手で奉げ持った。

「……俺が渡したハンカチを守ろうと頑張ってくれたんだよな。
 『ごめん』 と言えばお前は同情されたと思うだろう。
 だけど俺は決して同情しているわけでも哀れんでいる訳でも
 ない。
 だから 『ありがとう』 と言わせてくれ……」

そう言って動かない指の一本一本に、大事そうに唇で触れて舌でなぞり、何度も何度もキスをしてくる。
温かいその舌の感触に、思わずゾワリと背筋に快感が走った。
今まで受けた客の誰一人左手に触れようとさえしなかったし、ましてや左手で触られる事をあからさまに嫌がる客だって沢山いたのに……

ヒロはゆっくりと左手を俺の膝に戻した。

「俺にも少しぐらいお前の思いを分けてくれよ。
 本当はもっともっと言いたい事があるんだろ?
 何でもかんでも最初から諦めたような目をして自分の中に溜め
 込むんじゃなく、頼むからちゃんと求めてくれよ?
 ……仁志だけじゃなく俺だって怖い。
 仁志にとって初めて好意を表したのが俺だから、それだけで
 俺を好きだと勘違いしてるんじゃないかって。
 俺といるのを日に日に怖がっていく様子を見て、本当は俺じゃ
 ない誰かが仁志の心をもっとうまく開いてやって、そいつが
 仁志をさらっていくんじゃないかって。
 そうなる前にお前を俺のモノにしたいけど、俺から手を伸ば
 せばただの欲望や同情だと勘違いするだろ?
 だから俺もどうしたらいいのかわからなくてなかなか話が
 出来なかった。
 ……なぁ仁志、仁志の全部を受け止めるから、俺に出来る
 全部で答えるから、だから俺に手を伸ばしてくれよ?
 お前が何を求めているのか、ちゃんと言葉に出して言って
 くれよ?」

普段は眼鏡の奥で柔らかい表情を作り出している瞳が、今はあらがう事が出来ないほど強い意志が込められた真剣な光を湛えて俺に向けられていた。
……この瞳が、この瞳を持つヒロの存在そのものが、自分でも怖くなるぐらい好きだと思う。

俺が求めているのは?
俺が手を伸ばしたいのは……?


最初にヒロと出会った時以来、手の痛みと格闘していた時でさえ一度も流れた事の無かった熱い涙が、いつの間にか見開いていた目からつぅーと頬を伝って零れ落ちていく。

「……愛して……ヒロ、俺を、愛して……」

か細い声で勝手に口をついて出た言葉は、きっと今まで蓋をしてきた俺自身の心の叫び。
こうしてヒロに蓋を開けられて、ようやく本当の自分に気付かされる。
全て諦めているなんて、そんなのは全部大嘘だった。
俺がそうやって自分に言い聞かせてきたのは、ただ自分から求める勇気がなかったから。
罰が当たるのが怖かったから。
だから自分から手を伸ばすなんて考えようともせずに、いつも逃げ出す事ばかり考えてきたんだ。

だけど本当はずっとヒロを求めていた。
無条件に俺を受け入れて温めてくれる、俺にとっての太陽のような存在だったヒロに愛して欲しかった。
ヒロに再び出会えて良かったと、その為に頑張って生きて来て良かったと、唯一俺の生きる意味だった野本弘和という存在が、咽喉から手が出るほど欲しかった……

「ヒロ……お願い。俺を愛して……
 一生懸命頑張るから。
 ヒロが望むような人になれるようもっともっと頑張るから。
 だから…俺を…愛して……!
 勘違いなんかじゃない!
 最初に優しくしてもらった人だからなんかじゃない!
 ヒロだから!
 ヒロじゃなきゃこんなに欲しくない!
 ……ヒロだけでいいっ!
 他には何一つ望まないからっ!
 どんな罰が当たってもいいからっ……!
 ……だから神様…お願い……
 どうかどうか、俺にヒロを与えてください……っ!!」

神様なんて罰を与えるだけの怖い存在だと思ってきたクセに、それでも合わせた両手を額に押し当てて自分の膝に突っ伏し、何かに必死に祈らずにはいられなかった。

ギュッと目を閉じているにも関わらず大粒の涙が次々と零れ、それと同時に一度蓋を開けられてしまった心が堰を切ったように溢れ出して止まらない。


「……仁志はこれ以上頑張る必要なんかない。
 今まで頑張って生きて来て、俺の前にもう一度姿を
 見せてくれただけで充分。
 俺はそのままのお前を、俺の全部で愛している。
 だから神なんかじゃなく、目の前にいる俺自身に手を
 伸ばしてくれよ。
 いくらでも好きなだけ与えてやるから。
 仁志が怖がるもの全てから俺が守ってやるから。
 だから手を伸ばして俺の全部を持っていってくれよ。
 罰だろうがなんだろうが、そんなもの全部俺が跳ね
 除けてやる。」

その言葉を聞いた途端、ずっと溜め込んできた色んな思いを自分でも驚く程大きな叫び声に変え、体を起こしながらヒロに向かって精一杯両手を伸ばした。
ヒロはその手をしっかり掴んで、くず折れかけている俺の体を力強い腕で支えてくれる。
そしてそのまま温かくて逞しい胸に引き入れて、優しく宥めるようにギュッと抱き締めてくれた。
ずっとずっと心の奥底で求めていたその存在に、その温もりに、ただただ声を上げて泣きじゃくりながら必死でしがみつく。

強く抱き締めてくれている温かい体が微かに震え、ヒロが顔を埋めている俺の髪が音も無く静かに濡れていく。
ヒロも…泣いてる……


涙や叫びと共に澱のように溜まっていた全ての物を吐き出し、次第に遠ざかっていく意識の向こう側で、涙にかすれた声が耳元に響いた。

「……俺の為に生まれて来てくれてありがとう……」


……太陽に…手が届いた……