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ヒロの家はマンションの1階。
ベージュのカーテンがかけられた居間の窓の向こうには、タイル貼りの小さめなテラスと雑草が伸び放題の専用の庭、何ていう名前なのかはわからないけど、ヒロの物だろう車が置かれたカーポートがある。

「庭なんて手入れしている暇がなくてな。」

そっとカーテンの隙間から暗い庭を覗いていると、左手でワイングラスを持ったヒロが近付いて来て俺の隣に立ち、右手でオレンジジュースを渡してくれながら笑った。


落ち着いた木目の家具で纏められた暖かい雰囲気の居間。
テレビの音だけが響いている部屋で、肌触りのいいスエード調の生地に包まれたブラウンのソファに隣り合って座っていた。
肩が触れるか触れないかの距離に座って、テレビの画面を眺めながら黙ってワインを飲み続けている存在を痛いほど意識しつつも、俺はいつまで経っても隣に視線を向ける事が出来ず、水滴のついた手の中のグラスを眺めていた。
あの路地裏から走り出た以降は、なんだか夢でも見ているかのようにずっと足元がふわふわとしていて、とてもじゃないけどこれが現実とは信じられない。
だから隣を見たら夢が覚めてしまうんじゃないかと怖かった。


「仁志は家に帰らなくていいのか?」

グラスの中の氷が溶けていく様子を見ていると、突然ヒロが口を開いた。

「……あの、家なんてないから……
 あ、ごめん迷惑かけて。いますぐ出てく」

やっぱり図々しかったな。
慌ててグラスをウッドテーブルに置き、そのまま 立ち上がった俺の腕をヒロが優しく掴んで止めた。
驚きながら振り向くと、苦笑しながら俺を見上げている。

「おいおい、俺から誘ったのに迷惑な筈無いだろ〜?
 そうじゃなくて……
 じゃあここを出たら、また仁志はあの路地裏に戻るのか?」

その言葉にうんと頷いた。
もちろんだ。
それ以外に俺が生きていく道はないんだから。

するとヒロが俺の目を真っ直ぐに見上げながら少し考えた後、 急に真面目な顔になって静かに口を開いた。

「……なぁ仁志。
 俺と付き合ってみないか?」

一瞬耳がおかしくなったかと思った。
何が何だかわからないまま固まっていると、またヒロが口を開く。

「別にあの子に振られたからじゃないからな?
 それに仁志の気持ちを利用しようとも思ってないし、同情して
 いる訳でもない。
 誤解するなって言っても無理かもしれないけど……
 でも、今はちょっとうまく言えないけど、少しずつ理由を話して
 行きたいと思ってる。
 だから付き合うとは言っても、一緒に過ごしていく中で仁志が
 それを納得してくれるまで絶対手は出さない。
 勝手な言い分を押し付けているのはわかってる。
 だけどどうしても路地裏に戻って欲しくないんだ。
 だから少しだけ俺に時間をくれないか?
 路地裏に行かなければ生活に困るだろうけど、その代わり俺は
 何もしないからここに寝泊りしてくれればいいし、飯も俺が
 いない間は家にあるものを適当に食べてくれて構わないし、
 一緒に食える時は一緒に食えばいい。
 どうだ?」

どうだって言われても……

時間をくれないかって何の時間?
― あぁ俺が納得するまでの時間か。
って、俺が何を納得するんだ?
― 付き合おうと言った理由だ。
付き合う?誰と誰が?
― ヒロと俺だ。
ヒロと……俺?
ヒロと俺が……付き合う……?


「ええええっっ?!」

しばらく考え込んだ後にようやく反応を返した俺を見て、ヒロは少し 驚いてから楽しそうに笑った。
そして腕を掴んでいた手を離してゆっくり立ち上がり、そのせいで5cmほど 目線を上げながらヒロの目を呆然と見つめている俺の頬を片手で包んで、親指で目尻のほくろを撫でた。

「仁志……いや、今はいいか……
 でもお前って純粋で不器用で、ホント、可愛いのな〜。」

眼鏡の奥の瞳が優しく細められている。

「かわ、かわ……」

可愛いって……

そんな言葉をかけられた事など今まで一度もなかった。
可愛いという言葉は森みたいなタイプに本当にふさわしいと思う。
森とは、色は違うけどよく見ると目の印象が似ている、と路地裏の奴らに言われた事はあったけど、それでも白い肌に栗色の巻き毛をした人形みたいな森と、丸みのまったくない痩せ細った体に伸びかけのストレートの黒髪を持つ俺とでは全然タイプが違うのに。

口をパクパクさせながら相変わらず呆然としている俺を、ヒロは相変わらず 優しく笑いながら見ていた。

ハッと我に返り、どうしたらいいのかわからないまま下を向く。
その笑顔は汚れた俺には眩しすぎて、真っ直ぐヒロを見ていることなんか出来なかった。
ヒロは俺の頬に触れたまま、もう一度目尻のほくろを撫でた。

『交渉、成立な?』 と言いながら。