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親が外で何と言い訳していたのかは知らないけれど、あれから家出をするその日まで、俺が外出を許される事はなかった。
恥さらしになるからと病院には連れて行ってもらえず、部屋に閉じ 込められたまま時々与えられる市販の鎮痛剤だけで痛みや熱と格闘し、 数ヵ月後には左手の中指から小指までは使い物にならない状態で 固まってしまった。
取り上げられたハンカチは目の前で燃やされ、毎日部屋に置かれる水と 時々投げ込まれるパンやおにぎりで食い繋ぎ、思い立ったように部屋に 入ってくる親に、訳がわからないまま暴力を振るわれ続けた。
『お前なんか生まれて来なければ良かった』 と、包丁で切りつけ られた事も一度や二度じゃない。
だから俺の体には一生消えない傷痕が無数に残っている。

生きている意味がわからずに何度も何度も自らの命を 絶とうとし、頭がおかしくなりそうな俺をその度に支えてくれたのは、あの飴の包み紙だった。
ポケットに残った飴の包み紙を大事に部屋に隠し、親のいない 時間に眺めてはあの人を思い出し、夏にはカーテンの隙間から 時々ひまわりを覗いた。
そして学校に行っていれば中学3年生だった筈の卒業時期のある日、 かねてから計画していた通り、着の身着のまま飴の包み紙だけを持って 家を出た。


中学卒業の時期まで待てば何かの仕事に就けるかもしれないと、 その日まで必死で耐え抜いてきた。
前に飛び出した時の足取りを懸命に辿りながらあのオフィス街の 近くまで行き、何か出来る仕事はないかとあちこち尋ねまわった。
けれどもちろん保証人もなく、住所不定で未成年の俺を雇ってくれる所など どこにもなく、『その手じゃとても仕事にならない』 と 断られる事も多かった。
金もなく、公園の水飲み場でたらふくの水を飲み、夜は公園の ベンチで寝た。
そんな時、見ず知らずの男に生まれて初めて買われた。
何をされるのかわからずに不安だらけだったが、いい加減水だけで 暮らしていくのも限界だった。

今では顔も覚えていないが、振り返ればいい客だったのだとは思う。
泊まりだったから寝る場所の心配も必要なかったし、体の傷痕を見ても 何も言わなかった。
その上初めてだと言う俺に、少しばかり金をはずんでくれたりもして、 体を売っている男達が集まるという、あの路地裏を教えてくれた。

そんな仕事があるなんてまったく知らなかったし、そんな風に金を稼ぐ のも嫌だったけれど、生きていく為には他に選択肢がなく、翌日から 俺はその路地裏に立つようになった。


路地裏ではある程度のルールがある。
客を取り合わないとか自分の立ち位置とか。
そしてそんなルールを教えてくれたのが森だった。
森はかろうじてねぐらがあるが、俺はそんなものが無かったので、 仕事は出来るだけ泊まりで受けていた。
泊まりがない時は一晩に何人もの客の相手をして、結局最後は公園のベンチで寝た。
少しずつ少しずつ俺と森は色々な話をするようになり、お互いの家庭環境 なんかも話をするようになった。
友達という存在など一度も持った事がない俺だけど、唯一森だけが特別だった。


そんな荒んだ日々にすっかり慣れてしまった頃、あの人がふらりと路地裏を訪れた。
あの人の近くにいられさえすればいいと思ってオフィス街の近くに来た ものの、まさか会えるとは思ってもみなかった。
とても酔っ払っていたようで、フラフラと歩きながら俺の前を通り過ぎ、 そしてふと顔を上げて森を驚いた様に見た後、そのまま森を買って路地 裏を出て行った。

へぇ〜、森みたいなのがタイプなんだ。
森は人形みたいで可愛いからな。

その時は純粋にそう思っただけで、それよりも偶然に会えた事の方が ずっとずっと嬉しかった。
頑張って生きて来て良かったと、心の底から思った。
そしてそれ以降もその人はしょっちゅう現われては森を買って行った。


不思議な事に森を妬む気持ちには一度としてなった事はない。
俺はあれ以降家にいる時も家を出てからも、ご飯を食べられない事が多かった為に見る影もなく痩せてしまったし、だけど何故か背だけは伸びたから見た目が随分変わった。
だから俺に気付かないのは当たり前だと思っていたし、それにたかが 数分でしかないあんな出会いを覚えている筈がない。
なのであの人が森を気に入って定期的に姿を見られるようになったという、その事だけで本当に充分で、逆に森に感謝すらしていた。
あの人を見られるだけで頬の温もりと飴の甘さがよみがえり、少しだけ心が温かくなる気がしたから。
あの人がくれたあの飴の包み紙があったおかげで、地獄の様な家での日々を耐え抜き、 そこから逃げ出す勇気が出たのだから。


あの人が森を買いに路地裏を訪れるたび、俺は自分の仕事も そっちのけでそちらを見つめていた。

あぁ今日も元気そうで良かった。
今日は随分酔っ払ってるけど、何か嫌な事でもあったのかな。
少し疲れているようだけど大丈夫かな。

そんな事を思いながら、ただただずっと見つめていた。
それだけでまた次に会えるまで頑張ろうと思えた。


いつか見たあのひまわりのように、手の届かない所にいるあの人を、 俺は飽きもせずにずっとずっと見つめ続けていた。