それは小学6年のある夏の日。
何がきっかけだったのかはあまり定かではないけれど、多分夕食時に
余所見をして、水をこぼした事が原因だったと思う。
ハッと気付いた瞬間、正面に座っていた父親の足がテーブルの下で
飛んできた。
その勢いで椅子ごと体が吹き飛び、床に叩き付けられた俺が食べた
物を戻してしまうと、母親が追い討ちをかけるように罵声を浴びせる。
そんなのはそれまでだって何度もあった事なのに、何故かその時だけは
耐えられず、蹴られて痛む下腹を押さえたまま何も持たずに家を飛び出した。
どうしてそんな所に行ったのかいまだに自分でもわからないけれど、
ふと気が付くとオフィス街の一角に辿り着いていた。
時間も夜だったし、当然場違いな俺は結構目だって人目を引いて
いたのだろうと思う。
ジロジロと周りから受ける視線が怖くて堪らず、ビルとビルの細い
隙間に入り込んで膝を抱えて震えていた。
「こんな所でどうしたんだ?」
突然かけられた声にビクッとしてそちらを見ると、背後にある街灯に照らし出された、眼鏡をかけて
スーツを着ている若い男の人がニコニコ笑いながら立っていた。
……どうしよう。
警察とかに連れて行かれるのかな。
慌てて立ち上がって逃げ出そうとすると、『あ、ちょっと待てって』
と言って俺の腕を軽く掴む。
何をされるのかわからずに怖くて思わず暴れると、『何もしないから逃げるなよ〜』 と
俺の腕を掴んでいない片手でハンカチを差し出してきた。
そしてそれの意味がわからずにいつまでもそれを受け取ろうとしない俺に苦笑しながら、掴んでいた腕を放し、ビクッと怯える俺の顔をそのハンカチで拭いてくれる。
そう言えば腹に入っているものを戻した後、口を拭う事すらしていなかった。
「子供がこんな時間にこんな所で一人でいるんだから、何か
事情があるんだろ?
それは聞かないけど、でももう家に帰ったほうがいい。
本当は警察に連れて行くなりしなきゃいけないんだろうが、
今から大事な商談を兼ねた接待があるんだ。
だから悪いけど家まで送ってやる事も出来ない。
……あ、そうだ。」
その人は黙って突っ立っている俺にハンカチを渡すと、ごそごそとポケットを
探り、『あったあった』 と言いながら飴玉を一つ取り出した。
「これはな〜、辛い事も悲しい事もあっという間に消してくれる
魔法の飴なんだぞ〜?
だからこれを食べれば君はたちまち元気になる。
いや〜、最後の1個を大事に取っておいて良かったよ〜。
ほら、食え。」
おどけたように言ってから優しく笑って、ハンカチを持っていない
ほうの俺の手にその飴を握らせる。
「俺はもう行くけど、ちゃんと家まで帰るんだぞ?
人生辛い事ばかりは続かない。
苦しんだ後には必ずいい事が待ってるもんだ。
だから頑張れよ、少年。」
「……ホントに?
ホントにいい事が…待ってる……?」
気が付いた時には勝手に口が動いて小さく聞き返していた。
するとその人が顔に手を伸ばしてきたのでハッと我に返り、余計な事を言ってしまったから殴られるのかもしれないと、怯えながら歯を食い縛る。
けれどその人は眼鏡の奥にある澄んだ瞳でジッと目を覗き込み、片手で俺の頬に触れて目尻にあるほくろを親指でスッと撫でた。
大きくて、温かい手。
生まれて初めて感じる、人の温もり……
「もちろんだ。
暗い夜の後には必ず太陽が昇るだろ?
たとえ曇りの日や雨の日が続いてしばらく太陽が
見れなくても、必ず晴れた日は訪れて太陽が昇る。
だからいい事が訪れるまで諦めるなよ?」
そして頬を撫でてから手を振って行ってしまった。
何が何だかわからずに心臓がドキドキしたまま、その大きな背中を
身動き一つ出来ずに見送る。
左手にハンカチを、右手に飴を握り締めながら……