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俺が連れて来てもらったのは車で1時間ほど走った所にある海。
時期外れの為駐車場の入り口には鎖が張られて入れないようになっているので、その手前でヒロは車を止め、車を降りて夕焼けに照らされた誰もいない海に向かって一緒に歩き始めた。

ここにはヒロと思いが通じ合ってからすぐの時、一度だけ連れて来てもらった事がある。
誰もいない海をその時初めて見た俺は、次々と押し寄せてくる波が怖く、静寂の中ではじけていく波の音が恐ろしくて堪らなかった。
連れて来てくれたヒロには悪いと思いつつも恐怖でガタガタと震える体が止まらず、必死に海から顔を背けて足元の砂浜を見つめていた。
すると、後からヒロが俺を宥めるように優しく抱き締めてくれる。
その温もりに包まれている内に俺の体から余計な力が抜け、次第に震えが止まり、恐怖心が取り払われていく。
『俺がいるから大丈夫だろ?』 と笑いながら言われた言葉にホッと息を吐いて小さく頷くと、ヒロが耳元で静かに言った。

「元々生き物は海から生まれたって知ってるか?」

初めて聞いたその話に驚きながら首を横に振ると、ヒロは一度俺の髪にそっと口付ける。

「地球という大きな生命体がこの海の中から新しい生命を生み、
 その生命が様々な変転を繰り返しながら人間を生み出した。
 仁志も俺もここから生まれたんだぞ?
 贅沢を覚え、感謝を忘れた人間が作り出すものには必要では
 ないものがあるかもしれない。
 だが地球が生み出すものに無駄なものや不必要なものは
 一つも無いんだ。
 だから、仁志も産まれるべくして産まれたんだという事を
 覚えていてほしい。
 ……いつか仁志がここに来たいと思った時に、また来よう。」


そう言ってくれたヒロ。
あの時の俺にはさっぱり意味が解らなかった。
今でもちゃんと理解できているのかどうか、自信はない。
けれど今日はどうしてももう一度ここに来たかった。


****************


会話を交わす事無く波打ち際まで来た俺達は、触れるか触れないかの位置で立ちながら波音に耳を傾け、夕日と海を眺めた。
いつもは俺を驚かせたり笑わせたり話が途切れないヒロも、車の中から引き続きずっと黙ったまま。
俺の様子が少し違うのをわかってくれているんだろう。


しばらく穏やかな海を静かに眺めていた。
あんなに怖いと思った海が、今は逆に俺の気持ちを落ち着かせてくれるような気がする。
……うまく話が出来るかどうかわからないけれど、でも頑張って今の気持ちをヒロに伝えてみよう。

俺は一度ゆっくりと大きく深呼吸をしてから話し始めた。

「……ヒロがひまわりの伝説を教えてくれた時、ひまわりは
 なんて悲しい花なんだろうと思った。
 必死で求めているのに届かない。
 叶わない思いをずっとずっと捨てられない。
 辛くて苦しくて堪らないのに、それでもまた太陽を求めて
 手を伸ばさずにいられない。
 だからすごく切なくて悲しいなって。
 だけどその後にヒロがしてくれた話を聞いて、ヒロが今まで
 俺に言ってくれた言葉を一つ一つ振り返ってみて、たとえ
 同じ出来事があったとしても、受け止め方が違うだけで全然
 思いが変わるんだって気が付いたんだ。」

左手を目線の高さに持ち上げて眺めてみる。
変な風に曲がってしまって、全く動かす事が出来ない3本の指。
人差し指と親指はかろうじて動くけれど、それも神経が少しおかしいのかなかなか思う通りには動いてくれない。
壊れて何の役にも立たない、もう二度と元に戻る事がない俺の左手。
けれど森がバイトをしていると聞いた時、『俺も何かしたいけど、この手じゃ仕事なんて何も出来ないし……』 とボソッと言った俺に、ヒロが左手に口付けながら笑って言ってくれた言葉がある。
『仁志のこの手には、俺を抱き締める、という何よりも一番大切な仕事があるだろ?』 って……

「……俺、何も感情を持ってないって自分の心に嘘をついて
 きたけど、でも、きっとずっと親の事を憎んできたんだと思う。
 その気持ちが今はどうなのか、自分でもよくわからない。
 まだ憎んでいるのかもしれない。
 まだ恨んでいるのかもしれない。
 だけど、今の俺はヒロと一緒にいるようになって、沢山沢山
 温めてもらって、すごくすごく幸せなんだ。」

右手で左手を包み、動かない指の一本一本を撫でてみる。
とっても不恰好だけど、それでもヒロを抱き締めるという仕事を与えてもらえたこの手を、今は自分でも心から愛しいと思う。

何も言わずに隣で俺を見ているヒロになんだか恥ずかしくなって、両手を下ろしながら海に視線を戻す。
そしてもう一度、しばらくの間静かに海を眺めた。


夕焼けに照らされてキラキラとオレンジ色に光っている海はとても綺麗で、寄せては返す優しい波を、絶える事無く俺の足元まで運び続けていた。
ヒロと俺が生まれた場所。
本当にそうなのかもしれないと、今なら少し思える。


「……あの人達に…いつか伝えたい。
 俺は野本弘和という人と出会えて、今本当に幸せですって。」

ザーと波が少し大きな音を立てながら引いていき、もう一度さっきよりも大きな音をあげて打ち寄せてくる。
その波に合わせる様に俺の目に涙が浮かんで来た。

俺はいまだに親の顔を思い出すことが出来ない。
それを思い出そうとする度に恐怖で叫びだしそうになってしまうから。
だから今すぐにはまだ無理だと思う。
けれど、今はヒロのおかげでこんなに笑ったり泣いたり出来るようになった。 涙を流したら少しは楽になれる事を教えてもらった。

何故俺を生んだのかと身を引き裂かれるように苦しんだ事もある。
お前なんか生まれて来なければ良かったと、包丁で切りつけられた事も一度や二度じゃない。
だけどそんな俺に、ヒロは 『俺の為に生まれて来てくれてありがとう』 と言ってくれた。
だから、俺は産まれるべくして産まれたんだ。
だからこそ…いつか必ず……

ヒロに体毎向き直り、今の俺に出来る精一杯で笑った。

「だから…俺を産んでくれてありがとうって…伝えたいんだ」

大きく音を立てて波がはじけるのと同時に目尻からポロポロと涙が零れ落ちる。
声が震えてかすれてしまったけれど、俺の思いはちゃんとヒロに伝わっただろうか……

ヒロはサングラスを片手で外して下を向き、きつく唇を噛み締めながらそれを持っている手の甲を少しの間額に押し当てた。
それからサングラスを砂浜に放り投げて俺の左手を大事そうに両手で持ち上げ、そっとそこに唇で触れた後、顔を歪めながらその手を引っ張って強く強く抱き締めてくれた。
湧き上がってくる嗚咽を飲み込みながら、両手をヒロの背中にまわしてそっと抱き締め返す。

……ヒロはどうしてこんなに俺を安心させてくれるのも、俺を幸せにしてくれるのも上手なんだろう。
そしてこうやって一緒に泣いてくれて、その度に俺の中の重たい物を一つずつ確実に消してくれる。
こんなに俺を大切にしてくれているヒロに恥じない自分でいたい。
少しでもヒロに追いついて、一度でも多くこの手でヒロを抱き締めたい……

「……いつか必ず…一緒に礼を言いに行こうな……?」

涙に濡れた声が耳元に響き、やっぱりヒロは俺の思いを理解してくれたんだとわかった瞬間、必死で我慢していた嗚咽が堰を切ったように溢れ出す。
息が止まりそうなほど強く抱き締められた腕の中で何度も頷いた。

産んでもらえて本当に本当に良かった……

俺の全てを受け入れてくれる、その大きくて温かい存在にしがみついて泣いた。
とても言葉にならない沢山の思いを込めて、声が嗄れ果てるまでヒロの名前を叫びながら泣き続けた。


世の中のもの全てが醜く見え、世の中のもの全てが信じられず、世の中のもの全てを恨んでいた時もあったのに、そんな世界から俺を救い上げてくれたのはヒロだった。
暗闇の中、膝を抱えながら独りで震えていた過去は消えない。
けれど、あの人達が俺をこの世に産み落としてくれたからこそ、ヒロと出会う事が出来たんだ。

芳澤仁志として産んでもらえた幸福に心から感謝しよう。
そのたった一度しかない人生で、野本弘和という人と出会わせてもらえた幸福に心から感謝しよう。
そしてその感謝を込めて来年ひまわりを育ててみよう。
そうすれば大きく育って花を咲かせてくれるかもしれないから。


世の中のもの全てを大事にしていこう。
俺に出来る精一杯で。
そして手を伸ばす勇気を無くさないようにしよう。
俺の中で枯れる事無く咲き続けているひまわりのように。


ヒロ、俺に『感謝』と『愛』を教えてくれてありがとう……


− 完 −