シリーズTOP



日曜日。


青くて硬いベンチの様な椅子に隣り合って座っている俺と森は、沢山の家族連れや子供達に混じって呆けた様に口を開けたまま、身を乗り出しながら最前列でイルカのショーを眺めている。
日曜日だけあってさすがに混雑しているので、ヒロと智紀さんは他の子供達の邪魔をしないよう一番後ろで立ち見をすると言っていた。
元々人込みは苦手だけど、取り合えず森が一緒だし、それより今はそれ所じゃないぐらい目の前の光景に目を奪われていた。

それにしてもすごい。
イルカのショーはテレビでチラッと見た事があったけど、やっぱり生だと迫力が全然違う。
目が釘付けになって、それに合わせて首を上げ下げしてしまうほどのダイナミックなジャンプ。
そして晴れ渡った空の下でキラキラと光っている水面から、俺達の所までずぶ濡れになるほど勢いよく飛んでくる水飛沫。
服が濡れないよう最前列の客達にはあらかじめ体を覆うビニールが配られていたけれど、それでもショーが終わった時には俺も森も大量の水を被っていた。
ちょっと寒いけど二人共上着は脱いで行け、と言っていた智紀さんの台詞の意味がようやくわかった。
上着まで濡れてしまったら寒くて震えていただろうから。
でも俺も森もそんな事にはお構い無しに、拍手をすることすら忘れ、ただただ呆然としながらショーを眺め続けた。


そしてショーの後に待っていたのはイルカとの握手タイム。
一回につき10人までのこのイベントに参加する為のチケットは、水族館に到着すると同時にヒロと智紀さんが買ってくれていた。
番号を呼ばれた俺と森が前に進み出ると、俺達以外は全員小さな子供達。
何だか少し照れ臭くなりながら同じように照れ臭そうにしている森と視線を交わし、そして立見席にいるヒロ達の方を見上げると、何か会話をしていた二人がそれに気付いて笑って手を振ってくれる。

味のあるUSED加工がされたレザージャケットの中にサーマル地のカットソーを着て、ローライズジーンズにごく薄いブルーのサングラスをかけているヒロと、グレーのロングTシャツの上に黒のテーラードジャケットを羽織り、ブーツカットのジーンズをはいて黒のキャスケットを被っている智紀さん。
まるで雑誌の中からそのまま抜け出してきたかのような二人は、いかにも大人の男という感じで本当にカッコ良い。
……今日はヒロのサングラスの色で絵を描いてみよう。


俺はヒロが会社に行っている間、家事が終わった後はファッション雑誌を眺めたり絵を描いたりして過ごしている。
絵を描く事をすすめてくれたのはヒロだった。
思いが通じ合ってから少し経ったある日の夕食後、会社帰りに買って来たらしいすごく沢山の種類が入った色鉛筆と何枚かの白い画用紙をいきなりテーブルの上に広げて、『今日はお絵かき大会だ!』 といつものようにワインを飲みながら絵を描き始めた。
『自慢じゃないが美術は2だったからな』 というヒロの絵は、人の事は言えないけれど確かにあまり上手じゃなかったのかもしれない。
だけど有名なアニメキャラクターや犬や猫などの絵を、いろんな色を使いながら次々と楽しそうに描いているヒロを見て、俺も真似してみようと思った。
何を書けばいいのかわからなかったので、沢山の色鉛筆の中から一本取り出して手が動くままに描いてみると、自分の中の何かがそこに乗っていくような不思議な感じがした。
描きあがった絵は自分でも、なんだこれ?と思うようなものだったけど、『お〜うまいうまい!』 と必要以上に褒めてくれるヒロの言葉に照れながらも、もう一度その不思議な感じに触れてみたいと思った。
そしてそれ以来毎日絵を描き続けている。

あの不思議な感じの正体は結局わからない。
でも絵を描いている間は他の事を全て忘れてしまうぐらい夢中になり、描き終わった時には何故か自分の中が少し軽くなるような気がした。
最初はいろんな色を使うのが苦手だったものの、最近では雑誌を見ていて印象に残った色とか、ヒロがその日身につけている物の色とかで絵を描くようにしている。
相変わらず何の絵を描いているのかは自分でもわからないけれど。
だから今日は、手を振りながら優しく笑ってくれているヒロのサングラスの色にしてみようと思った。


すっかりヒロに見惚れてしまった後にハッと気付いて隣の森を見ると、やっぱり智紀さんに見惚れていた森と目が合い、一緒に吹き出しながら係の人の説明を聞き、言われた通り長靴に履き替えたり消毒をしたりした。


****************


「やっぱり可愛いな〜」

振った手を下ろし、係員の指示に一生懸命耳を傾け始めた仁志を見ながら思わず呟く。

「俺達が骨抜きになるぐらいな」

同じ様に森君を見ていた佐倉が苦笑しながら言ったので、だよな〜、と笑い返した。


俺は仁志を見る度に、まるでバカの一つ覚えのように 『可愛い』 を繰り返してしまう。 それも口癖と言うよりはどの瞬間も言わずにいられないというのが正解だ。

昨日はいつも行っている美容室と服屋に連れて行った。
黒い髪色はそのままに前髪と襟足はストレートで長めにし、前髪は横に流している。 トップは少し短めにさせ、今日は水を被るとわかっていたので、今朝は恥ずかしがる仁志を押さえつけてハードワックスとスプレーでスタイリングをした。
元々整った顔つきなのに、放っておくと自分の事は何もしないまま俺の世話だけを焼こうとするので、たまに髪を切りに連れて行ったり服を買ってやったりするのが俺は楽しくて仕方がない。
そして恥ずかしそうに、申し訳なさそうにしている仁志を抱き締めて、やはり 『可愛い』 と言わずにはいられなかった。

173pというそれなりの身長で、どこからどう見ても二十歳という年相応の男にしか見えない仁志には、見た目的に 『可愛い』 という言葉は少し違うのかもしれない。
けれど俺はその仁志を心底可愛いと思う。
何がどうだから、とかそんな理由ではなく、仁志の存在そのものが可愛くて愛しくて堪らない。


さっき俺の方をずっと見ていたのは、今日描く絵の色でも決めていたのだろうか。

言葉数が少なく、自分の感情を表す事が極端に下手でとても不器用な仁志が、どうすればうまく自分を表現できるようになるだろうと考え、絵を描かせる事を思いついた。
心理療法の一つに、具体的に言葉では伝えにくい自分の中のイメージを、絵に描いて表現することで自分の内面的な部分と向き合っていくという治療方法があると聞いたから。

沢山ある色の中から仁志が選んだのは黒。
大きな白い画用紙のホンの片隅に、小さな小さな絵を描いた。
それを見て痛む胸を誤魔化しながら大げさに褒めてやると、照れながらも少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
自分でも何を描いたのかわからないと言うので、何故その色だったんだ?と尋ねると、首を傾げた後 『ヒロとひまわりの記憶以外、俺の中には色が無いんだ』 と困ったような顔で答えた。
『それだけ俺の存在が大きいって事だろ?』 と笑ってみせながら、俺の台詞に照れて赤くなる仁志を強く抱き締め、どうしても湧き上がってくる怒りや悲しみに震え出しそうになる自分を必死で抑えた。

あんなに細い体で、想像がつかないほどの痛手を一身に背負ってきた仁志の心の傷や、全身に残る生々しい傷痕や左手に触れる度、どうにもならないほどの感情が爆発してしまいそうになる。
そしてそれを抑えるように、俺は毎回仁志を強く抱き締めて、必ず俺が守ってやるからな、と心の中で語りかけた。


絵を描かせる事はやはり良かったのだと思う。
描く絵が少しずつ大きくなり、違う色も少しずつ使い始めるようになった仁志は、それと比例して笑ったり泣いたり恥ずかしがったりと、様々な表情を見せてくれる回数が着実に増えて来た。
その顔があまりにも純粋で、何故そんなに真っ直ぐでいられるのだろうと胸を打たれ、心が癒され、愛しいと思う心が止まらなくなる。

話を聞くだけで打ちのめされてしまいそうな過去を背負いながらも、いまだに罰が当たる事に怯えながらも、それでもなお必死に俺に手を伸ばそうと努力を続けてくれている。
可愛いと思わずにいられない。
愛しいと思わずにいられない。
仁志にふさわしい自分であれるよう、努力せずにはいられない。
俺の為に生まれ、そして俺の元に辿り付くまで必死に生き抜いて来てくれたその存在を全身全霊で愛し、抱き締め、もう大丈夫だと、もう頑張る必要はないんだと、何度でも言い聞かせて安心させてやらずにはいられなかった……