The time of supreme bliss(至福の時)
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「お邪魔します。」
そう言って静かに店に入ってきたのは折原遥(オリハラハルカ)。
彼とはユウ君がいなくなった後に時々通っていた、いわゆるハッテンバであるバーで知り合った。
心の隙間を埋めるように誰彼構わず抱かれていた私に
『今の貴方は誰かに抱かれるよりも、話を聞いてもらう事の方が必要だと思いますよ』と言って
話を聞いてくれたのもハルカだった。
私はハルカに今までの人生や、ユウ君との事も全て話した。
潔く諦められたと思っていたのは単なる強がりで、本当はもう一度彼に戻って来て欲しいと
喉から手が出るほど彼の存在を望んでいる自分にも、その時気付かされた。
ユウ君の名前を呼びながら、バーのカウンターに突っ伏して泣く私を最後まで慰めてくれたのもハルカ。
歳は私より大分下で当時二十歳そこそこだった筈だけど、ハルカの言葉にはとても説得力があって
私の中にすぐに浸透した。
そうやって誰にも言えなかった話を聞いてもらう事で、私は改めて心の整理がつき、
それ以来相手も選ばずバカなマネをする事は止めた。
物腰がやわらかくて包容力のあるハルカとはとても気が合って、好みがかぶる事も無かったので
それ以降お互い気兼ねなく、色んな話をしてきた。
けれどハルカには一生を共にしたいという恋人が出来てそのバーに来ることはなくなり、
私も歳を取ると共に足遠くなってしまっていた。
この店にハルカが訪れたのは単なる偶然だったのだけど、それ以降たまにここに寄ってくれている。
「ハルカがここに来るなんて久々だね。相模(サガミ)さんはどうしたの?」
「実はこの後リョウとデートなんですよ。たまには外で待ち合わせをしてデートするっていうのもいいでしょ?」
尋ねる私にハルカは嬉しそうに微笑む。
ハルカは自分が働く大学病院で知り合った『黒神の昇龍』と、一生を共にする相手として付き合っている。
この辺一帯では知らない人間がいないほど有名で恐れられる存在、相模良哉(サガミリョウヤ)と、
何食わぬ顔で平気で一緒に暮らしていられるのもハルカだからこそなのだろう。
カウンターに座るハルカに彼の好きなアイスミルクティーを出し、しばらくお互いの近況を報告しあった。
8月7日にサガミさんを実家の札幌に連れて行くという話には、さすがに驚く。
私の場合は既に両親もいないし、カナデとヒビキの母である姉は、私が小さい頃から
ゲイだと気が付いていたらしい。
なので特に問題は無いが、ハルカの家は代々医者家系だし、その上ハルカは長男だ。
そんな堅苦しい家で、カミングアウトしても大丈夫なのか?と私が聞くと
「ん〜、でもどっちにしろリョウ以外と生きていくつもりはないし、どんなに隠し通しても
いつかはバレる事ですからね。それに私はリョウと共に居られる事を誇りに思っていますし。
リョウと過ごす時間が私にとって何よりも至福の時なのですよ。」
と幸せそうに笑って話すハルカ。
それを見ながら、ハルカは柳のような人だと思った。
古来より美人を表す形容詞としてよく使われる木だが、見た目もそれを思い起こさせるような
たおやかな容姿だし、その上風に逆らうことなく受け流しているように見えながらも、
実はとても万能でしなやかな強さを持っている。
きっとサガミさんもそんなハルカの魅力に惹かれたのだろう。
私がそんな事を思っていた時、カラン、と音がして、当の本人であるサガミさんが入ってきた。
ハルカはそれを見て嬉しそうに立ち上がるが、私はやはり一般人なので、
何度会ってもその存在自体を怖いと思ってしまうのだけど。
「思ったより早かったですね。車は置いてきたのですか?」
少し驚いたようにそう聞くハルカに、スーツの胸ポケットから取り出した外国製のタバコに火をつけた後
「ハルカとのデートに舎弟なんぞ連れて行きたくはないからな。」
と返すサガミさん。
……デートって……
いや、確かに間違ってはいないのだけど、『デート』という言葉がここまで似合わない人っていうのも……
ハルカは私がそう思っている事に気が付いているのだろうが、それには何も言わずクスッと笑って
「リョウのそういう所が好きですよ。」
と返している。
するとサガミさんはまだいくらも吸っていないタバコを灰皿で揉み消し、千円札を一枚カウンターに置くと
行くぞ、とハルカの肩を抱き寄せて出口に向かう。
ハルカは肩を抱かれたまま少しだけ私の方を振り向き、また来ます、と微笑みながら
手を振って出て行った。
……やれやれ。
今日は一体何組のカップルに見せ付けられた事だろう。
いい歳をしたオジサンには本当に目の毒ですよ。
でも、どのカップルにもそれぞれの経緯があり、決して楽に歩んで来られた訳ではないだろう。
だからこそ今幸せであるという事を隠さずにいる強さを持っている。
このまま全ての人達が幸せでありますように、と心から祈り続けて行こうと思う。
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その後も数人のお客さんが来たが大抵コーヒー1杯で帰って行き、閉店時間の7時を迎えた。
表に出してある看板を『OPEN』から『CLOSE』に変えた後、入り口の電気を消してカウベルをはずす。
いくつか残っていたコーヒーカップをさっさと洗い終わると、自分用のマグカップにコーヒーを注ぎ
読みかけの本を開いてカウンターに座った。
元々読書自体が好きな私は、基本的にどんなジャンルの本も読む。
今夢中になって読んでいるのはお客さんの一人に進められた英文の植物辞典。
最初はそんなもの何が面白いのか、とも思ったのだけど、年甲斐も無く英和辞書をひきながら読み始めると
これが結構面白い。
ただその植物についての説明だけではなく、名前がつけられた由来やそれにまつわる民話や神話など、
沢山の興味深い話が載っている。
中でもバラは本当に様々な話があり、ローマ神話では、ジュピターがヴィーナスの水浴を覗こうとした為
ヴィーナスが顔を赤らめて赤いバラが生まれたとされていたり、
ヴィーナスの息子キューピットが蜂に刺された拍子に、近くのバラの茂みに向かって矢を放って以来
バラにはトゲが出来たと言われていたり。
特に役に立つ知識という訳ではないのだけど、一旦読み出すと他の物が目に入らなくなる位
夢中になっている。
まぁ唯一英語というのが難点だけど、それでも最近は辞書がなくても簡単な言葉なら
理解出来るようになっていた。
パラパラと辞書をひきながら本を読み出して、どれ位が経っただろうか。
私が読んでいる本の上に、昔と同じ、蕾のままの2本の赤いバラがスッとのせられた。
思わず固まったまま目の前に置かれたそれを凝視した後、ゆっくりと隣を見上げる。
……ユウ君……
貧乏大学生だったあの頃とは違い、35歳になったユウ君は立派なスーツを着て私を見下ろしている。
決して太っている訳ではないけれど、いくらか逞しくなった体。
目尻には私よりは少ないけれど多少の皺が見え、いつも微笑んでいた口元は、今は硬く閉じられていた。
もしかして戻って来てくれた……?
思わず期待しそうになってしまった自分に、いや、それは違う、と言い聞かせる。
彼と思い合っていたのはあくまでも過去。
ユウ君は結婚する為に私を捨てて行ったのだし、何を今更期待する必要があるだろう。
それに彼は元々ノーマルなのだから、現在幸せに暮らしている筈だ。
じゃあ何故?それもあの時と同じ、バラを2本用意して……
そう思いながらも、自嘲気味に軽く頭を横に振る。
何故かなんて知る必要は無い。
どうせ、たまたま近くを通って懐かしかったから、という位なものだろう。
ユウ君は昔から洒落た事をする人だったのだし、
バラだって以前やった事をふと思い出したに過ぎないだろう。
『一緒にコーヒーを飲みながら昔話でも出来ればいい』と思ったのは自分だったではないか。
ならばコーヒーの1杯でもご馳走して、世間話でもしたら帰ってもらえばいい。
それから家のベットで一人で泣けばいいんだ……
「久しぶりだね。元気だったかい?」
出来るだけ平静を装って話しかけるが、その陰で心臓は破裂しそうなほどドキドキしていた。
ユウ君は一度頷いてから少し黙った後
「マコト」
と昔より幾分低くなった声で呼びかける。
……ダメダメ。名前を呼ばれた位で動揺したらダメだ。
「マコトは13年前とちっとも変わらないね。幸せに……暮らしてた?」
昔のままの優しい口調。
……幸せな筈ないのに。ユウ君がいなくて幸せになんて……
「うん、おかげ様でね。店もそれなりにうまくいっているし、常連さんも沢山できたし。
ユウ君が教えてくれたクロックムッシュに随分救われたんだよ。」
心の声は無視したまま、努めて明るく振舞う。
ユウ君は、それは良かった、と言った後、一瞬視線を逸らしてからまた私を見る。
「今……誰かと………付き合ってる?」
真剣に見詰めてくるその瞳に、どう答えていいものかちょっと迷った。
けれど少し位強がりを言って、僅かに残っていた自分の中の望みを全て捨ててしまおう。
「……うん。付き合っている人がいるよ。私は幸せだから心配しないで。」
そう言って微笑んで見せながら、どうしても震えてしまう手をカウンターの下に隠した。
ユウ君は、そっか、と言って小さく溜息をついた。
「……やっぱり遅かったんだね。
手紙に書いた約束の期限は過ぎてしまったけど、マコトの事だから、待っていてくれるんじゃないかと
勝手に期待してた……
ごめん。もう顔出さないから、恋人と幸せにね。」
と寂しそうに言って私に背を向けると、店の入り口に向かって歩き出した。
……手紙?手紙って何の事だ?約束の期限って?
ユウ君がいなくなった後、バラとジャケット以外に何も残されていなかった筈だ。
それにあの後ユウ君から手紙が送られて来た事もない。
一体手紙って……?
……だけど、今更そんな事を問いただした所でどうなる?
彼はまだまだこれからの35歳。
仕事は何をしているのか知らないけれど、今着ている高そうなスーツを見るだけでも
店の売り上げの数ヶ月分位にはなりそうだ。
それに比べて自分は相変わらずしがない喫茶店のマスターで、おまけに歳も42歳。
明日には43歳になる。
老いて行く一方の自分が、今更それを聞いた所でどうにもなるわけないだろう?
扉に手をかけるユウ君の後姿を、身動きひとつせずに黙って見詰める。
13年という長い期間を経て、私はユウ君に対する思いをすっかり整理できたと思っていた。
だけどその広い背中を見ていると、行かないでくれと縋り付き、引き留めたくなってしまう自分がいる。
けれどこんな歳をしたオジサンが、未来に一体何を望めると言うのか。
ただ平穏な生活さえ続けていければそれで充分ではないか。
このままその背中を見送れば、またさっきまでと同じ、平和な生活が戻って来る。
愛する人に愛される贅沢など、身分不相応の幸せなど、求めないと決めて生きてきたじゃないか……
静かに扉が閉まる音がして、ユウ君が店を出て行った。
それと同時に涙が頬を伝う。
……もう少し若ければ。
せめてあと数年若くて、まだ30代だったなら。
きっと私は迷わずあの背中にしがみついただろう。
だけど、明日43歳を迎える今となっては、もう何もかもが遅すぎる。
横に飾ってあった2本のバラのドライフラワーを左手で取り、そして目の前に置かれた、
同じく2本の新鮮な赤いバラを右手で握った。
いくつもの棘が掌を刺し、ポタ、ポタ、とゆっくり赤い鮮血が膝に落ちる。
だけど心の痛みに比べれば、こんなものを痛みとは感じない。
心の痛みに震えながら両方の花弁に口付けた時、
ふと昼間あのおかっぱの女の子に言われた台詞を思い出す。
『マコト、もうすぐあんたが心から待ち望んだモノがあらわれるよ。でもこれからは待つだけじゃだめだ。
ちゃんと自分から追いかける勇気も必要。それを忘れるんじゃないよ。』
……ハッとした。
あの子が誰で、どんな理由があってその台詞を言ったのかはわからない。
けれど、その台詞は今の自分に合いすぎる位合っているのではないか?
ユウ君が戻ってくるのを待っていたという自覚はなかったけれど、
でもそう言われれば今の自分の状況は、待っていたと言われてもおかしくはない。
……後は自分から追いかける勇気……だけ……?
ガタンと音をさせて立ち上がり、両手にバラを握ったまま走り出す。
そのまま扉を両手で押し開くと、どちらに行ったのだろうと辺りを見回した。
けれど右を見ても左を見ても私が望む背中は見えない。
取りあえず探すしかない。
まずは右、と決めて走り出そうとしたその時、うちの店と隣のビルの間にある狭い隙間に人影が見えた。
握り締めた両手のこぶしと額を壁について、下を向きながら肩を震わせているスーツ姿の男性……
ユウ君にどんな事情があったのか、それはわからない。
手紙、というのが何の事なのかも全くわからない。
あの日私を捨てて行って、その上今日突然戻ってきた理由も、何もかもがわからない。
けれど、そこで肩を震わせて泣いている男性が、今私を求めてくれているのは事実なのだと思う。
贅沢なんか望まないと決めていた。
でもこんな風に、今だけでも自分を求めてくれている人が居ること自体が贅沢なのだから。
この歳になって与えられた贅沢に、少し位甘えてみよう。
狭い隙間に走り入って、その腰に思い切り抱きついた。
驚いたように壁から額を離して見下ろしてくる、涙で濡れた瞳を見上げてみて、
やはり自分がこの人を望んでいたのだと改めて確信する。
「ごめんね、ユウ君。さっき付き合っている人がいるって言ったのは嘘なんだ。
私は君だけをずっと待っていた。
ユウ君に何があったのか、手紙って何の事なのか、それは全然わからないけど、
それでも私は君だけを……待っていた…よ……」
思わず嗚咽が漏れそうになって、最後はうまく言葉にならなかった。
それでも私は持っていたバラがぐちゃぐちゃになるのも構わず、その腰にしっかり抱きつきなおした。
するとユウ君が私の方にゆっくり向き直り、バラを握ったままの両腕を掴む。
「……マコト、今の、ホント?俺の聞き間違いじゃない?
俺を待っててくれたって、嘘じゃない?」
不安そうなユウ君の台詞に、涙を流しながら微笑んで頷いた。
きっと私の顔は涙でひどいことになっているだろう。
こんなオジサンが泣いたって、可愛くもなんともないのにね。
だけどユウ君は掴んでいた私の腕を放し、そんな私の体をしっかり抱き締めた。
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