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The time of supreme bliss(至福の時)

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カナデ達が帰ってから、キノシタ君から貰った絵を店の真ん中の壁に飾る。
うんうん、と一人で満足しながらしばらく眺めた後、カウンターの中に戻って
残っていた洗い物を片付け始める。
今から閉店の7時までは、時々時間潰しに来るお客さん以外ほとんど人も来ない、のんびりした時間だ。

私はざっと皿を洗いながら、先程カナデに言われた台詞を思い出す。

確かに昔、私には半年間だけ付き合った恋人がいた。
それがクロックムッシュを私に教えてくれた大学生……


****************


ここを開店する時にバイトを募集したのだが、その時に面接で来た当時19歳の彼に私は一目惚れした。
自分がゲイだという事は小さい頃から自覚していたので、男を好きになったという事実に驚きはしなかった。
けれど相手は自分より7歳も年下の大学生。
その上当然のごとく彼はノーマルで、バイトを始めた頃は彼女らしい子が何度か店に来た事もあった。
彼目当てに来るお客さんも少なくなく、コーヒー一杯で粘る女性客も結構いたように思う。

170cmそこそこの私と違い、180cmを越すすらりとした身体。
短く刈り込まれた真っ黒な短い髪。
見詰められると思わずドキッとしてしまう切れ長の目をして、少し薄めの唇は常に微笑んでいた。
もちろん大学生らしい若さを感じさせる事が多かったのだけど、時には私よりも年上なのでは、と思わせる位
落ち着いた顔を持っていたりして、そのどれもが私を夢中にさせる。
けれどそんな邪な思いを抱いている事に気付かれてはいけないと、私は必死になって隠し通した。

堅苦しい呼び方は嫌だから、と理由をつけ、河野悠太(コウノユウタ)という名前の彼を、
私は、ユウ君、と呼んでいた。
すると、何?マコト?と、望んだ通り私の名前をいつも優しい声で呼んでくれる。
特別な思いなどなく私の名を口にしている事がわかっていても、
その一々に私はドキドキする心臓を必死で抑えなければならなかった。

ユウ君がバイトを始めて2年半、大学4年生になったある夏の日の朝、私がいつも通り開店準備をしている時
足元をふらつかせた、とてもお酒臭いユウ君が店に入ってきた。
前日が飲み会だとは聞いていたが、この酔っ払いようじゃ、きっと今まで飲んでいたのだろうと
容易に想像がついた。
けれどお酒が強いと聞いていたので、そんなになるまで酔っ払うなんて珍しいな、と思いながら
カウンターに座らせ、冷たいレモンティーを差し出す。
するといきなり腕を掴まれ、無理やり顔を引き寄せられて強引なキスをしかけてくる。
何が何だかわからなかったけど、心の底から望んでいたその感触に、私はただ成すがままに任せた。
まったく抵抗しない私の口中を蹂躙したユウ君は、しばらくしてからゆっくりと顔を離し、
震える息を吐きながら、マコトが好きだ、と呟く。そして

『男同士が気持ち悪い事は誰より俺が一番わかってるし、俺がマコトよりずっと子供な事もわかってる。
だけど、何度考え直しても、何度気のせいだと自分に言い聞かせても、やっぱりマコトが好きだ……』

と下を向きながら言った。
あまりに突然の告白に、私は絶句する。
けれどその直後、私の意志とは関係なくどんどん涙が溢れ出した。
そんなに自分の思いが迷惑だったのか、と不安そうにするユウ君に私は慌てて微笑んで見せて、
実は私もユウ君がずっと好きだったのだと告白した。

その日以来、私達は恋人同士として付き合い始めた。毎日が蕩けそうになる位幸せで幸せで堪らなかった。
ただ不安だったのが、私達の間にキス以上の関係は無く、店以外で会う事が一度もなかった事。
恥ずかしい話、私はユウ君と付き合う29歳になるまで誰とも性的な関係を持った事が無かった。
もちろんそっち方面のビデオを見たり雑誌を見ながら一人の世界に耽った事は何度もある。
けれど実際に行動を起こす勇気は私にはなかった。

でも、ユウ君と相思相愛の関係になり、お客さんがいなくなる時間を見計らって、
時には優しく時には激しくキスを交わすようになれば、どうしてもその先を求めたくなる。
けれど、好きだ好きだと言葉に出して言ってくれる割には私達は店以外で会う事はなく、
店の上にある私の自宅にそれとなく誘ってもいつの間にかはぐらかされて、一向にその先に進もうとしない。
やはり男の私と関係を持つ事が嫌なのだろうか、と不安になりかけた時、
マコトに痛い思いをさせるのは可哀想だから、とユウ君が少し悲しそうに言った。
私を心配してくれる気持ちをありがたいと思いながらも、自分の性欲を持て余すという付き合いが
半年ほど続き、ユウ君の卒業式を迎える。

私はその日を迎える事がすごく怖かった。
卒業後ユウ君がどうするのか、私は一度も聞いた事が無かったし、ユウ君も私に話す事は無かったから。
私の望みは、ただ一緒に過ごす時をたまに作れさえすれば、後は何でも構わなかった。
たとえ会える時間が5分だろうが3分だろうが、
お互いを好きであると確認出来るキスをする時間さえあれば充分。
まだまだ若く、未来への明るい展望が開けているユウ君に、
7歳も年上で、その上ちっぽけな喫茶店のマスターである自分がこれ以上望むのは贅沢だ。
自分にそう言い聞かせながらも、やはり不安で堪らない。

これからユウ君はどうするのだろう。そして私達の関係は……?

卒業コンパが終わった後に店に来るから待っていてと言われ、
私はいつも通りカウンターの一番端の席に座って本を読み耽っていた。
するといきなり本の上に、まだ蕾の2本の赤いバラが差し出される。
驚いて顔をあげると、少しだけアルコールの香りがするユウ君が私を見下ろしていた。
もう終わったの?と聞こうとする私の体を引き上げて立たせた後、一番奥のボックス席に連れて行く。
そして、ごめん、と一言告げてから私をボックス席のソファに押し倒し、私の服を乱暴に脱がせた。

せっかく初めて結ばれるのに、こんな所は嫌だと何度も逃げ出そうとする私の腰を
その度に抗い難い力で引き寄せ、待ち望んでいた筈の、直に体温を感じ合える行為を
こんな形で実現したくないと泣く私の涙を舐めとりながら、何度も何度も、ごめん、と言って
ユウ君は私が気を失うまで自分の欲望を私の中に吐き出し続けた。

ふと目が覚めた時には既に外が白み始めていて、私は自分の経営する喫茶店の硬いソファの上で
小さく縮こまっていた。
白濁液にまみれた裸の体には昨日ユウ君が着ていた紺のジャケットがかけられており、
当の本人はどこにも見当たらない。店の中にも全く人の気配は無かった。
開店の準備をはじめなければ、とのろのろと痛む体を起こし、ざっとタオルで体の汚れを拭った後
テーブルの上にたたんで置かれていた自分の服を身に着ける。
何が起こったのだか自分で理解出来ず、ただいつもと同じ行動をしていなければ
頭がおかしくなりそうだった。
でもユウ君はきっとまた顔を出して、昨日は酔っ払っていたからごめん、と
いつものように微笑んでくれると思った。
けれどそれ以降ユウ君は音信不通になってしまった。

当時は携帯電話がなかったので、一度もかけた事のなかったアパートの部屋に電話をかけた。
最低でも土日は必ずバイトに来ていたから、それまでは電話をかける必要がなかった。
けれど何度かけても留守電。
履歴書に書かれていた住所を尋ねて実際アパートまで行ってもみたが、人のいる気配は全く無い。
そのうちアパートの電話は『お客様の都合により……』という無常なメッセージが流れるようになった。
数週間後ユウ君が通っていた大学に電話をかけ、払い残したバイト代を渡したいから、と言うと
今ほど個人情報の漏洩に厳しくなかった時代だったので、あっさりと実家の番号を教えてくれた。
そして緊張しながら電話をかけた私に応対した、ユウ君の母親らしい女性が告げる。

『ユウタは結婚したのでここにはおりません』

……その時ようやく自分が捨てられたのだと理解した。
『ごめん』と何度もユウ君の口から漏れた言葉が、私を蹂躙する事に対して漏れた言葉だったのではなく
私を捨てる事への謝罪だったのだと言う事も……


****************


キュッキュッと音をさせながら、洗い終わったランチプレートやグラスをリネンのタオルで拭き、棚にしまう。

彼が姿を消した後、私にかけられていた彼のジャケットはそのまま捨ててしまった。
あまりにも汚れていたし、それを取っておいても持ち主が戻って来るわけじゃない。
けれど本の上に置かれたままになっていたバラはどうしても捨てる事が出来ず、
私がいつも座るカウンター席の横の壁にドライフラワーにして飾ってある。
彼が私にくれた最初で最後のプレゼント。
今ではいつの間にかそのバラを眺めるクセが出来てしまっていた。
そしてそんな自分に、それを飾っているのは未練ではなく思い出なのだと、日々言い聞かせている。

結局その後、私は誰とも付き合う事はなかった。
ただ時々そういう店に訪れてはその場だけの関係を楽しむ事はあった。
元々ユウ君はノーマルだったのだし、半年という短期間ではあったけど
とても幸せな時間を過ごさせてもらった。
それにいい歳をした初体験だったけど、
本気で好きになったユウ君に自分を捧げられたのだからそれで充分。
愛する人に同じだけ愛してもらおうと思う事自体が贅沢だ。
こんなオジサンにそんな贅沢は必要ない……

優しいユウ君の事だから、今頃はきっと良い父親になっているだろう。
彼が幸せであってくれれば、それ以上望むものはない。
彼を思い出す度に、チクリ、と胸に走る痛みに気がつかない振りをする事も、今ではとてもうまくなった。
いつの日かまたこの喫茶店で、一緒にコーヒーを飲みながら昔話でも出来ればいいな、と思っている。