リョウは車を降りてから家に入るまでの間、決してこちらに視線を向けようとはしないまま、少し俯き加減で歩く私の肩をずっと抱いていてくれた。
顔を合わせる心の準備がまだ出来ていない私に気が付いての事だったのだろう。
玄関の扉を開けてくれたので軽く頭を下げてから先に足を踏み入れると、普段ほとんど意識する事のない、慣れ親しんだいつもの家の香りが鼻腔を刺激する。
すれ違う時間の多いリョウと私が、たとえ相手がいなくてもその存在を確かに感じ取り、その中で育んで来た二人の関係を包んでくれているこの空間……
そう思った途端、鍵をしめる音を後ろに聞きながら何故かその場で足が止まってしまった。
家に帰って来たと安心した事で、緊張の糸がぷっつりと切れてしまったのだろうか。
けれど電気も点けていないし、このままではリョウが家に上がれないので一刻も早く動かなければと思うのに、その場に根が生えてしまったかのようにどうしても足が動いてくれない。
すると突然背中からきつく抱き締められ、それにハッと驚きながらも黙っていると、帯が崩れる事にも構わずに更に深く強く抱き込んでくれる。
廊下の足元をほんのりと明るく照らし出す、センサー式のフットライト以外何の灯りもない暗闇の中、リョウの漏らす微かな溜息があらわになっているうなじをくすぐり、思わずふるりと身震いをした。
するとリョウは邪魔そうに左手でウィッグを除けながらうなじに唇を押し当て、痕が残るほどに強く吸い上げると、そのまま熱い舌を這わせていく。
けれどその動きは決して性欲を煽り立てて来るわけではなく、あくまでもソフトで優しい。
「……ん……」
宥めるようにゆっくりとうなじに繰り返されるキス。
僅かに鳥肌が立つ腕を密かに擦りながら目を閉じ、柔々と触れる唇や舌からリョウの温もりや優しさを感じ取っていく。
「……少し…酔いが過ぎてしまったようです」
力強い腕の中で少しずつ普段の自分を取り戻した私は、閉じていた目蓋をそっと開いて苦笑交じりにそう伝えた。
リョウはもう一度強くうなじを吸い上げると、ピクッと震わせる背中を抱き締めながら片手を伸ばして電気を点け、腕の中で向きをかえさせる。
眩しさに目を細めながらもようやく動くようになった足で大人しくそれに従い、様子を確認するように覗き込んで来る瞳を見詰め返した。
「でもやっぱりリョウと二人で飲み直したいので、
ちょっとだけ付き合ってもらえますか?」
いつも通りに微笑むと、黙って頷きながら前髪の生え際に軽くキスを落とし、さらっと頬を撫でて脇をすり抜けるように居間に向かって行く。
その広い背中を眺めながら、沸々と湧き上がってくるような幸福感に包まれていた。
****************
本当は一刻も早く息苦しい着物を脱いでしまいたかったけれど、それよりも今回の話に決着をつける方が先だと思っていた。
リョウが床に放り投げたスーツの上着をハンガーにかけ、冷蔵庫に入っていた缶ビールを2本取り出すと、早速タバコを吸い始めているリョウの隣にそれを持って座る。
プシュッと缶を開けて言葉を交わす事無く黙って乾杯をすると、静寂に満ちた中でお互いしばらくビールを飲み進めた。
空腹に日本酒を流し込んだ酔いが、いまだに顔も体も火照らせている。
けれど頭の一部は妙に冴え渡っていて、缶についた水滴が、ツゥ、と指の上を伝って行く様子を見ながら口を開いた。
「……リョウが結婚するかもしれないと思った時、
頭が真っ白になってどうしたら良いのかわから
なくなりました。
リョウが苛立っていたのが結婚が理由ではなかった
とわかってからも、またこの先同じ様な話があって
どうしてもそうせざるを得なくなった時、私はどう
するべきなのだろうと本当に悩みました。」
冷たいビールの缶を両手で握り締めたまま、リョウが隣で静かに煙を吐き出す音に少しの間耳を傾けた。
「『相模良哉は折原遼のものです』と書いたビラをヤクザの
方達に配布しようかと考えたり、古い映画のワンシーン
のように、結婚式の最中にリョウを攫いに行こうかとまで、
本気で考えたりもしたんですよ?」
クッとリョウが笑い声を漏らした事にホッとしながら私もクスっと笑い、隣に視線を向ける。
「一瞬ですけどね?」
リョウは咥えタバコで微かに肩を揺らしながらも、とても優しい視線を返してくれていた。
その視線に勇気付けられるように缶から放した手を着物の膝に置き、そのまま言葉を続ける。
「もしリョウが結婚するとしたら、相手の方を傷つけないよう
私は身を引くべきだろうか。
リョウの為と組の為を思えばその方がいいのではないだ
ろうか。
そんな綺麗事を並べている裏側に、醜い自分自身が常に
張り付いたままでした。
リョウを誰にも渡したくない、誰にも指1本触れさせたく
ない、私以外誰一人見ないでほしい、その為なら誰かを
不幸にしても構わない……」
僅かに下を向き、着物の袖口を固く握りながらギュッと目を閉じる。
「片時も離れずにリョウにしがみ付いていたくて、リョウが
いてくれなければ呼吸をする事すら忘れてしまいそうで。
……自分がこんなにも脆い人間だったなんて知らなくて、
そんな自分自身を嫌というほど見せ付けられる事が苦し
くて堪りませんでした。」