リョウが勢い良く空けていく一合銚子がそろそろ5本を越しそうだという時、西道さんが頃合いを見計らったかのように、そろそろ良哉と遼を解放してやってください、と苦笑交じりに言ってくださった。
黒谷さんが頷いたのを見て胸を撫で下ろしながら周りの方々に挨拶をし、共に腰を上げる。
リョウが手首を掴んだままだったので、強引に引っ張られながら添田さんと西道さんの所に挨拶に行き、『大変貴重な時間をありがとうございました』 とそれぞれにお礼を言うと、二人は無言で頭を下げているリョウの様子を見ながら 『まぁ頑張れ』 と私に苦笑して返してくれた。
最後に床の間の前で悠然と座られている黒谷さんの斜め後ろに二人で膝を突く。
染井吉野の淡い香りがここまで漂っているように感じられ、お酒の酔いと桜の香りに陶然とした酩酊感を味わっていた。
黒谷さんは芸者さんの一人に注いでもらったお酒を口に含みながら、以前と同じ様に老獪な目で黙って私を眺めた後、盃を置いてリョウの方に視線を向ける。
「良哉、お前はわしが合田の話を断らなかったら
どうするつもりだった?」
黒谷さんが声を発したので、周りの方々も芸者さん達も途端に口を噤み、賑やかだった室内がいっぺんに静まり返る。
「俺の進退は既に会長に預けてあります」
突然の問いかけに、リョウは迷う素振り一つ見せずに答えた。
けれどその答えに私の心臓がドキンと跳ね上がる。
「祝言を挙げたという事か……
だが遼はどうする?
いくら名目上とはいえ、籍を共にしたからには
女房の待つ家に帰らねばなるまい?」
リョウの答えを聞きたいのか聞きたくないのか自分でもわからないまま、まるでリョウを試しているかのように問いかける黒谷さんから床の間の染井吉野に視線を移した。
明るく軽やかに咲き乱れている筈の桜の花が、今は内に潜んでいる私の邪念や醜い心を映し出しているように見えるのは気のせいだろうか。
それが怖くて目を逸らしたくなる反面、その凄まじいまでの魅力に捕らわれてしまいそうで、心臓がドクンドクンと鼓動を早めていた。
「遼とはこれまで通り。
会長の命(めい)とあらばその家に顔は出しに行きますが。」
やはり迷わず返すリョウに、『それは女房も気の毒よのう?』 と黒谷さんが西道さんにクックと笑いかけ、西道さんは 『良哉ですから』 と苦笑しながら答えていた。
「……あくまでも仕事の一環か。
では遼がそれを受け入れなければ?」
周りにいる誰もがリョウの答えを固唾を呑んで見守っていた。
リョウがどう答えるのか、全く想像がついていない私も思わず横顔を見詰める。
するとリョウは掴んでいる私の手首を折れそうなほどに強く握り直し、スッと背筋を伸ばしながら唇を固く引き結んで、凛と澄み渡った瞳で見詰め返してきた。
その瞳に呼応するかのように、筆舌に尽くし難い今までの思いが次から次へと湧き上がって来て、いつの間にか見開いていた私の瞳を揺らす。
リョウはそれを見ながら静かに口を開いた。
「それでも俺の帰る場所は唯一遼の許のみです」
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ご機嫌な様子で私達を送り出してくれた黒谷さんをはじめ、西道さんや十人衆の方々に改めて挨拶をした後、土岐君が運転してくれる車で家に向かった私達は、お互い窓の外に視線を向けたまま終始無言だった。
けれどリョウが自分の膝の上で私の手を握っていてくれたので、言葉は交わさなくてもその温もりだけで全てが通じ合えている気がしていた。
物思いに耽りながら窓の外を眺めている内に、いつも通るのとは少し違うルートを走っている事に気が付く。
そういえば車に乗る前に、リョウが土岐君に何か指示をしていた。
それがきっと、車窓から夜桜を眺められるこのルートを通るという内容だったのだろう。
リョウの粋な心遣いが、今の私には何よりも嬉しかった。
お花見帰りらしき人達で溢れかえっている市街地は、普段よりも更に陽気さと高揚感に満ちている。
その様子を微笑ましく思いながら眺める余裕が出来たのは、多分自分の中の大きな壁を乗り越えられたから。
私達を襲った一陣の春嵐は、ようやく終息を迎えようとしている。
けれどその前に、せっかくリョウが用意してくれた、一緒にお花見が出来る今の時を思う存分満喫したかった。
そっとリョウの肩に頭を預けると、握っていた手を放し、額にキスを落としながら強く肩を抱き寄せてくれる。
それでも足りないほどに甘えたくて、着物の苦しさにも構わずにリョウの腰に両腕をまわして身を寄せた。
リョウは何も言わないけれど、私が悩んでいた事にも今の思いにもしっかりと気付いているのだろう、更に甘えさせてくれるように抱き寄せた肩を優しく撫で擦ってくれている。
突然巻き込まれた激しい嵐の中で、一寸先も見えずにただもがき続けていた私を守り、引き摺り出してくれたのは、やはりリョウの力強い腕だった。
提灯の灯りでぼんやりと幻想的に浮かび上がっている夜桜が、窓の外を緩やかに流れて行く。
どこよりも安心出来るリョウの腕の中でその神秘的な光景を眺め遣りながら、勝手に溢れ出しそうになる涙を誤魔化すように何度も瞬きを繰り返していた。