都会の奥座敷にある、江戸時代から続いているという老舗の高級料亭。
車のドアを開けてくれた土岐君にお礼を言いながら地面に降り立つと、途端に歴史の重みと風格を漂わせる静けさに包まれ、ここが都会の一部だという事をすっかり忘れてしまいそうだった。
宴会の始まる時間はとっくに過ぎているので、駐車場には既にずらりと黒い窓の車が並んでいる。
車の中でこの料亭に向かうと聞かされた時、ヤクザのお花見といえば桜の下でどんちゃん騒ぎというイメージを持っていたので少し意外に思ってしまった。
すると土岐君に
『それは下っ端の中でもごく一部です。
それにもし上にそんな事をされたら、サツは出るわ
何は出るわで大騒ぎになりますから』
と笑われ、相変わらずな自分の知識の無さに 『そう言われればそうですね』 と苦笑して返した。
長屋門をくぐり、所々に置かれた灯籠が暮れ始めた辺りを照らす中、慣れない足元の為にいつもよりゆっくりと歩を進める。
きっと私よりも後ろにいる土岐君の方が何倍もハラハラしているのだろう。
必要以上に足元に気遣い、大丈夫ですか、と声をかけてくれる。
その一々にありがたいと感謝し、大丈夫ですよ、と返しながらも、やはり自分の姿を思うと自嘲気味な笑いが漏れた。
西道さんに私の到着を伝えに行った土岐君の戻りを、入り口脇にある赤い布が敷かれたベンチに座って待つ。
前庭では控えめにライトアップされた古木が深い緑の影を落としていた。
その様子をぼんやりと眺めていると、程なくして土岐君は護衛の人数名を連れた西道さんと一緒に戻って来た。
「ご無沙汰しております」
ベンチから腰を上げて頭を下げた私を、西道さんは言葉を失ったように見ていた。
私もそれ以上何を言っていいものやらわからなかったので、そのままその場に立ち尽くす。
けれど黒谷さん宅で私を一目見た瞬間腰が抜けそうなほど驚いていた土岐君が、西道さんの隣に控えつつ何故か得意そうなのが可笑しかった。
「……遼、だよな?」
『はい』 と苦笑しながら答える。
「……思っていた以上に良く似合うな。
多少デカイがどう見てもオンナにしか見えんぞ。」
「素直に喜んでいいものかどうか迷いますが……」
顔をほころばせて笑った西道さんにそう返しながら、自分の後ろ頭に軽く触れる。
元々長めだった髪をきっちりと撫で付けられ、ピンやら何やらで付けられたポイントウィッグというつけ毛には、桜をモチーフにしたかんざしが挿されていた。
そして更に違和感のある自分の姿をもう一度見下ろす。
私が着ているのは 『黒神桜(クロガミザクラ)』 と名が付けられている女性物の着物。
漆黒の地に濃いピンク色の桜吹雪が全面に舞い踊っている。
日本を代表する巨匠の手によるというこの着物は、どうやら値段が付けられない代物らしい。
女装の趣味など持ち合わせていない私がこんな姿をしているのは、これが黒谷さんに頼まれた事だったから。
私はそれほど身長が低い方ではないので、以前私が事務所を訪れた後、いつか今日のような日が来るだろうと丈を直させたという話だった。
「お前も良哉と出会ったせいで、次から次へと突拍子も
ない目に合うな。」
苦笑しながらも気遣ってくれているとわかる西道さんに、『ご心配いただいてありがとうございます』 と頭を下げた。
「確かに色んな事にはぶつかりますが、それでも様々な
経験は自分にとって大切な財産だと思っています。
ですからリョウと出会えたおかげで数々の貴重な経験を
積ませてもらえる事に、心から感謝しています。」
嘘偽りの無い正直な気持ちだった。
女装をするとかしないとか、そんなのはどうでもいい話。
それがリョウの為になるというのならいくらでもしてみせる。
そんな問題ではなく、今抱えている葛藤でさえ大事な経験だと思っていた。
無意識に避け続けて来た 『リョウが誰かと……』 という難題に、今が立ち向かう時。
現段階ではまだ自分自身と向き合う事自体に怖気付き、確固たる答えを出せていない。
けれどこの葛藤を乗り越えるという経験を積んだ時、きっともう一歩深くリョウに近付けると信じている。
自分でも先が見えない不安に足が竦んでいるし、自分の醜い部分を見なくて済むように、出来る事なら避けて通りたい。
それでも私は歩みを止めずに真っ直ぐ進まなければならない。
何故ならリョウと過ごせる 『今』 という大切な時を、一秒でも無駄にしたくはないから……
するとポンと優しく肩を叩かれる。
いつの間にか強く握り締めていた着物の袖口から手を放し、静かに顔を上げて微笑むと、西道さんは私の気持ちに気が付いているように何度も深く頷いてくれた。
「……舎弟達がお前を待っている。
いくら良哉が渋ろうが、いつまでも奴らにお前を引き合わ
せん訳にはいかんからな。」
気を引き締め直して黙って頷くと、『心配する必要はない』 と優しく笑った。
「十人衆はガキの頃から良哉を見て来たから、奴の変わり
ようを見ていれば、お前が良哉にとってどんな存在なのか
充分わかっている。
だから今更お前の存在に異を唱える者は誰もいない。
良哉ももうすぐ戻る。
それまでカメラは気にせず、気楽に花見を楽しめ。」