翌日の夜。
昨夜、あの後ほとんど会話を交わす暇も無くすぐに家を出て行ったリョウは、もちろん今日も事務所に泊まり。
私は仕事が終わった後研究室に行き、ある程度の目処が付いてから家に帰って来た。
今日一日はほとんど食欲が無かったので、ざっとシャワーを済ませた後は食卓の椅子に座り、何も摘まないままちびちびと缶ビールだけに口をつける。
仕事をしている最中はそれだけに没頭しているので他の事は忘れていられるけれど、こうやって一人になってしまうと、どうしても昨日の話がよみがえって来る。
黒谷さんがどんな手を打つつもりなのかは、リョウにも五人衆の子達にも知らされていない以上私には想像のしようもない。
けれど、今回は黒谷さんの出した交換条件を呑む事で済んでも、もし次回があったとしたら……
……その時突然思い出した。
西道さんや他の十人衆の方々が結婚された歳が、今のリョウよりも若かった時だと聞いた事がある。
だからリョウの立場や年齢を考えれば、結婚話が出るのはもしかしたら初めてではなかったのかもしれない。
いや、間違いなく出ていたのだろう……
けれど私が今まで何の迷いもなく来れたのは、きっとリョウが何も言わずにいてくれたから。
リョウの性格を考えれば、自分に直接話が来ればすぐにでも断っていた筈だし、だからこそ少しでも私が不安にならないよう言わずにいてくれたのだろう。
一人きりの家はあまりにも広くて寂しく、それを埋めるようにいつもリョウが座っている居間のテーブルに場所を移し、いつもリョウが使っている灰皿の縁に指を這わせ、空気が一変するほどのリョウの存在感を思い描いていく。
リョウがいつもここに帰って来てくれる事を当たり前だと思って来た今までの自分が、どれ程贅沢だったのかを思い知らされる。
以前の市川君の件でそれが当たり前ではない事を知った筈だというのに、日々の忙しさにかまけて一つも進歩していなかった自分の情けなさに吐き気すらしてくる。
本当は当然ではない事を当然として過ごせるように、見えないところでも常に私を守っていてくれるリョウを思うと、それに応えられていない自分が恥ずかしくて居たたまれなかった。
私はどうすれば良いのだろう。
リョウの為に、私には何が出来るのだろう。
もしこの先避けられない結婚話が来たとしたら、その時私は……
すっかり物思いに耽っていると、静まり返った室内に突然携帯の音が鳴り響いた。
慌てて充電器に置いていたそれを取り上げてみると非通知だったので、誰だろうと思いながら受話ボタンを押し、もしもし、と言い掛けた所で。
『久し振りだなぁ、遼』
「黒谷さん……ですか?」
まさか黒谷さんが直接電話をかけて来るとは夢にも思っていなかったので、『こちらこそご無沙汰しています』 とかろうじて返したものの驚きのあまりその先が続かなかった。
『良哉の奴、えらい荒れとっただろう?』
そう言って黒谷さんはクックと笑っている。
私も 『そうですね』 と苦笑いをしながら返した。
けれど一応お礼は言っておかないと……
「今回はお花見にご招待頂いてありがとうございます。
リョウがいないのは残念ですが、リョウの選んだ道に
感謝していますので……」
黒谷さんは相変わらずクックと笑いながら、『やはり遼だな』 と漏らした。
けれどすぐに声の調子が変わり、トーンが落ちる。
『実は遼に頼みがあってな』
「私に、ですか?」
黒谷さんが私に頼み?
『極道には極道なりの義理だの筋だのがあって、
カタギのようには簡単にいかんのよ。
だから折原遼というより、良哉のイロとしてわしの
頼みを聞いてくれんか?』
****************
翌日の夕方、松などの美しい緑が配された広大な庭に囲まれている、純和風の重厚な邸宅を訪れていた。
ここは黒谷さんの別宅で、口止めされた為に私がここにいる事を知らないリョウは、お花見が行なわれる場所に私が自宅から真っ直ぐ行くものと思っている。
私をここまで連れて来てくれた土岐君も、黒谷さんから直接指示されて動いてはいるものの、私が何をする為にここに来たのかは知らされていないらしい。
門扉に車が到着するのと同時に出迎えてくれた警備の男性の後に続き、その邸宅に一歩足を踏み入れると、天然木が全面に張り巡らされた温かい雰囲気が私達を迎え入れてくれた。
「お待ちしておりました。
どうぞこちらへ。」
玄関の三和土で待っていた年配の女性に黙って一礼すると、促されるまま奥にある一室に進む。
「お付の方はこちらでお待ち下さい。」
案内された部屋の前まで来た時、その女性が土岐君に隣の部屋を示した。
土岐君は一瞬戸惑っていたけれど、『少し待っていてくださいね』 と微笑むと 『いつでも声をかけて下さい』 と言ってくれる。
それに 『ありがとう』 と返し、私は昨日黒谷さんに頼まれた事を実行に移す為にその部屋に入った。