唇2
「18歳は世間でも大人の仲間だ。
大人というのは自由である分、自分の言動に
責任を持たなければならない。
それはわかるな?」
森はもう一度真剣な顔で頷く。
それを見ながら俺も頷き返し、ゆっくりと深呼吸をする。
森がここに移り住んで17歳になったばかりだと聞かされた時から、森の18歳の誕生日にはこの話をしようと決めていた。
「俺は17歳の森と出会い、今までは保護者代わりと
して一緒に暮らして来た。
だが今日からは対等な大人同士だ。
だから一人の大人として自分で判断して答えて欲しい。
お前はこれからどうやって生きて行きたい?
この家を出て自活するのも自由だし、男でも女でも、
俺以外の奴と付き合うのも自由だぞ?」
全く予想もしていなかっただろう台詞に森は驚き、戸惑っている。
だが酷な様でもこれはけじめであり、森にとっても必要で大切な事だ。
世間的にも大人と判断され、自分の発言に責任を持つ18歳という年齢までは、あくまでも保護者として無条件に守ってやる存在が必要だと思っていた。
だから俺は俺の出来る限りで大切に森を守って来たつもりだ。
まともな人間扱いをされて来なかったそれまでとは違い、俺と出会ってから18歳の誕生日を迎えるまでの約1年という期間をかけて、森には一人の人間として大切に守ってもらう価値も権利もあるんだと、心の底からわかって欲しかった。
だがその為に悲惨な生活から引き上げてやり、最低限衣食住に悩まなくても良い生活を過ごさせる中で精神的な不安定さが落ち着けば、当然それまでとは違う価値観も出来ていくだろうから、その時になって森が改めて世間を見回した時に、俺以外の人間を選ぶ可能性も充分あり得る。
それは俺にとって身を引き裂かれるように辛い事ではあっても、一本道しかない与えられた環境の中で必死に生きて来なければならなかった今までとは違い、人生には様々な岐路があり、自分で可能性を広げていけるという事を知ってほしかった。
だからその猶予を作ってやるべきだと思っていたし、一人の大人としてその判断を尊重してもらえたという経験を積むのも、森にとっては自信に繋がる大切な事だろうと思う。
森はしばらくの間俺から視線を逸らし、その艶やかな唇を真っ白になるほど強く噛み締めながら悩んでいた。
その様子を見れば、俺がこの家を出て行って欲しいと思っているのかもしれない、だの、俺が森と別れたいと思っているのかもしれない、だのと余計な想像まで働かせている事がわかる。
だが俺は一切口を出さず、固唾を呑んで見守った。
散々悩んだ挙句ようやく森は答えを出したようで、一度自分で頷いてから真っ直ぐに視線を向けて来た。
「僕はこれからもずっと智紀と生きて行きたい。
智紀がこの家に住むのがダメって言うなら、ちゃんとした
仕事を探して自分で家も借りる。
だけど、智紀と別れるのだけは絶対絶対嫌だ。」
俺の後をただひたすら付いて来るだけだった今までとは少し違う、強い大人の意志を垣間見せた森の瞳を、俺も一人の大人として見つめ返す。
「それはお前が大人として判断し、大人として決めた事だな?」
うん、と迷い無く頷いた森に内心ホッとしながら頷き返してやり、シャツの胸ポケットに入れていたシンプルな1枚のカードを取り出して渡す。
受け取った森は、それを見るなり元々大きな茶色い目を更に大きく見開きながら片手で口を覆った。
「それが本当のプレゼントだ。
お前が大人になり、その上で俺を選んでくれれば
伝えようと思っていた。」
森の両目からは見る見るうちに大粒の涙が零れ始め、『智紀!智紀!』 と俺の名前を何度も呼びながら抱きついて来る。
俺はその森を強く抱き締め返した。
『愛している』
カードに書いた、たった5文字の言葉。
俺は今まで森に好きだとも愛しているとも告げて来なかった。
森はそれに関して何も言わなかったが、それでもやはり具体的な言葉を欲しがっているのもわかっていた。
だがこれが俺のけじめ。
俺にとっても辛い1年だった。
何度好きだと告げ、愛していると囁き、俺以外は見なくていいと、森を縛り付ける言葉を吐きたくなったかわからない。
だが森の将来を思った時、俺の勝手で森の判断を鈍らすような真似はしてはいけないと思った。
そして自分の判断に責任を持てる年齢になってから、自分の意思で相手を選び、その相手にも選ばれたのだという自信を持たせてやりたかった。
……その相手が他の誰かにならないよう、森を抱いて無意識に俺に縛り付けてしまわずにはいられなかったのが俺の未熟さの表れなのだが……
泣き続けている森の体を少し離し、額同士を合わせながら涙が流れ続けているその大きな目と視線を合わす。
「森、誰よりも愛している。
だからこれからも、今まで通りにこの家で俺と一緒に
暮らしてくれるか?
俺だけを見て、俺だけを愛してくれるか?」
森はしゃくり上げて更に涙を溢れさせながらうんうんと頷いた。
そして額を合わせたまま、俺の唇に右手の人差し指と中指でそっと触れてくる。
「……智紀、もう一回……もう一回言って?」
森に唇を触れられたまま、もう一度 『愛している』 と言う。
するとまた 『もう一回……』 と森は言い、俺は森が望むままに何度も口にした。
愛された経験の無かった森にとって、この言葉がどれほど重要な意味を持つのかは充分にわかっていた。
だからこそ判断を狂わせないよう、森の最後の砦だっただろうこの言葉をあえて告げて来なかったし、告げてやれないのが俺も本当に苦しかった。
だがやはりこれで良かったのだと思う。
俺が 『愛している』 と口にする度に、森の唇が今までに見た事がない大人の自信に満ちた笑みを少しずつ浮かべていくから。
何度目かもわからない 『愛している』 を言い終わった時、森は俺の唇に触れていた指を静かに離した。
「……僕の世界には僕と智紀しかいない。
だから智紀以外を見るのも智紀以外の声を
聞くのも最初から無理なんだよ。
智紀だけ……智紀……愛してる……」
囁くようにそう言って、そのまま口付けてくる。
俺も今まで言葉では告げて来れなかった溢れるほどの思いを込めながら、しっかりと森の体を抱き締めなおし、その艶やかでみずみずしい唇を心ゆくまで堪能した。
− 完 −
2006/01/28 by KAZUKI
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