足10
シャワーを浴びたり着替えたりと、僕が出かける準備をしている間に宗さんはすっかり社長姿に変わっていて、おまけに僕用に、スモークサーモンとカッテージチーズなどを挟んだライ麦パンのサンドイッチまで作ってくれていた。
私はもう食べましたから、と微笑んだ宗さんにお礼を言ってキッチンテーブルでモグモグ食べ始めると、先程の書類を持ち、いくつか電話をしてきます、と言って頷く僕の頭を撫でてから自分の書斎に消えて行く。
その背中を見送りながら、時々昨日みたいに意地悪になったりはするけれど、それでもやっぱり僕は宗さんだけが好きだ、としみじみ思っていた。
その後書斎から出て来た宗さんに促されるままマンションの1階に降りると、宗さんの側近の一人である桜井さんが車で迎えに来ていた。
宗さんよりも少し年上の桜井さんはもちろん極秘である宿の事も僕の事もわかっていて、宿を営業している間全面的に仕事を任せている、宗さんが最も信頼している人達の一人だ。
それにしても宗さんは仕事じゃないんだし、その上あくまでも僕の私用なんだから当然電車で行くものだと思っていたので、『おはようございます』 とドアを開けてくれた桜井さんの一歩手前で、おはようございます、と小さく返したまま足が止まってしまう。
すると後ろにいた宗さんが、どうかしましたか?と尋ねて来たので、焦ったように後ろを振り返った。
「あ、あの、もしかして、宗さんは僕と一緒じゃなくて、
仕事に行っちゃうんですか?」
宗さんが一緒じゃないかもしれないと思っただけで、急に心細くなってしまった。
そんな僕を宗さんが銀縁眼鏡越しに見てクスッと笑うと、ドアを開けて待っていてくれた桜井さんが優しく話しかけてくれる。
「葛城社長はご一緒ですから大丈夫ですよ。
実は朝別件で社長から連絡を頂いたのですが、その時に
今日は柚月さんと外出されると伺ったものですから、私の
方からその場所までお送りすると申し出たんです。」
その言葉にホッと胸を撫で下ろし、一瞬取り乱してしまった自分が少し照れ臭くなって 『あ、ありがとう、ございます……』 とお礼を言いながら、ようやく僕は車に乗り込んだ。
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徳田さんが泊まっているホテルに到着し、再度桜井さんにお礼を言ってから宗さんと一緒にロビーに足を踏み入れる。
その途端ホテルのフロントにいた男の人が足早に近寄って来て、何故か僕から少し離れた宗さんと何事か会話を始めた。
知り合いだったのかな、と特に意識もせずその間僕は歩みを止め、ポカーンと大口を開けて周りを見渡す。
吹き抜けになっているメインロビーは広々とした開放感に溢れ、豪華な調度や観葉植物が様々に配されている。
重厚な大理石の床は、まるで鏡のように僕を映し出すんじゃないかと思えるぐらい磨き上げられていた。
このホテルは一流として名を馳せているし、近くを通った事も何度もあるのできっと豪華なんだろうな、とは思ってはいたけれど、まさかこんなに……
宗さんと一緒にいるようになってから、家をはじめ大分豪華さや高級さには慣らされて来たつもりではあったけれど、それでも生まれつき貧乏体質な僕はやはりこういう雰囲気に圧倒されてしまう。
それに宗さんも 『一応は名目上の社長なので、こちらにいる時はそれなりに気を使うようにしています』 と言っている通り、普段会社関係の人達の目に触れる、身につける物や家などは高級だったりはするけれど、普段の暮らしぶりや宿にいる時などは決して贅沢ではなく、かえって質素と言ってもいいぐらいだ。
だからこそ僕も安心して一緒にいられるんだけど。
それにしてもこんなホテルに泊まれる徳田さんって、一体どんな仕事をしているんだろう、と頭の片隅で考えていると、ホテルの人と話を終えたらしい宗さんが近寄って来た。
「私個人としては、もっと素朴な方が好きなんですけどね。
でも最上階にあるフレンチレストランは結構いい雰囲気
で、味もなかなかですよ。
なんと言ってもあのコウのお墨付きですから。」
「中山さんの、ですか?」
何故突然中山さんの名前が出てきたのかわからずに聞き返すと、宗さんはクスッと笑いながら視線を前方に向けた。
「徳田さんってあの方じゃないんですか?
昨日見せてもらった手紙に、柚月さんが載っている
美術雑誌を持ってロビーで待っていると書いてあり
ましたよね?」
ハッとして宗さんと同じ方向を見ると、グレー系のスーツを着た落ち着いた雰囲気の男性が、雑誌をパラパラとめくりながらエレベーター脇の壁に寄りかかっている。
「すっかりお待ち兼ねのようですから、まずはご挨拶を
して来たらどうですか?」
「えっ?シュ、宗さんは行かないんですかっ?」
「徳田さんは柚月さんに会える時を心待ちにして来たので
しょうから、初めから割り込むような野暮な真似をする
つもりはありませんよ。
やはり ファン は大切にしなければ。」
宗さんはニッコリ笑いながら言うけれど、一緒に来てくれないと知った瞬間、急激に緊張やら宗さんと離れる不安やらが湧き上がってきてしまう。
本当は昨日みたいに宗さんと手を繋いでいたいぐらいなのに……
どうしよう、宗さんと離れたくない……
宗さんの手が、まるで生きる糧と言ってもいいほど今の僕には絶対なくてはならないもののように感じられた。
でもまさかこんな人前で手を繋いでもらう訳にもいかず、慌てて宗さんの背中に隠れ、どうしようどうしよう、とこの場から逃げ出したくなっていると、腕組みをしながら振り返った宗さんに 『元々一人で来るつもりだったのでしょう?』 と苦笑をされる。
一人で来るなんて、それも徳田さんの部屋で二人で過ごすなんて、僕はなんて無謀な事をしようとしていたんだろう……
「2階に気の利いたバーテンダーがいるバーがあります
から、そこで会話を楽しんでいてくださいね。
心配しなくても私もすぐに行きますから。
だからそれまでどんなに誘われても部屋に行かない事。
いいですね?」
その言葉に少しだけホッとしながら何度も何度も頷く。
「……あの、あの、……早く……来て下さいね……?」
真っ赤になりながらも必死でお願いすると、宗さんは 『お仕置き成功ですね』 とクスリと笑った。
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