アルバム委員の集まりは週に二度だ。月曜と木曜で、今日は木曜だった。
「業者に全部作ってもらえばいいのになあ」
 加地の返事がない。首をひねって廊下を見る。加地はまた同じクラスの女子と話していた。
 クラスが同じだから話す機会は多いはずなのに、気がつくと加地はあの女子と話している。にやけた顔をして。
 そうか。加地にも春がきたか。
 視線を移した黒板の前には阿比留がいた。今日もひとりで、背を伸ばして拭いている。
 欠けて薄くなっていく『今年の企画候補』を、おれはぼんやりと眺めた。
 卒業アルバムは二年の六月ごろから作り始める。学年全員参加の企画を決めて実行するためだ。生徒による思い出づくりにかかる期間は、約三か月だった。
 今年の企画は、小さいころの顔写真を使ってコラージュを作るというものになった。
「照久! 悪い、その……」
 加地が廊下から顔を出した。加地の後ろにセーラー服のスカートが見える。
「おう。気をつけて帰れよ」
 気をつけるのは女子のほうといえるほど、加地は発展家ではない。と、思いたい。
 小学校からの友達に先をこされた。廊下を歩くふたりを見てみる。
 互いの行動は読める仲だ。振り返った加地に、ひと睨みされた。
 椅子が机にぶつかる音がした。
 平和とは無縁の顔をした阿比留が、ロの字型に並べた机と椅子とをくっつけている。
 スズメちゃんは要領が悪いのかもしれない。委員の名前や案を書くのも、黒板をきれいにするのも、椅子をピシッとさせるのも、だれもやれとは言っていない。
 自分からしているのだ。怒りながら。
「おまえさあ。手伝ってほしいならほしいで、ちゃんと言えよ」
「?」
 ハトに豆鉄砲とは、まさにこれだろう。阿比留は目を白黒させていた。
「すごい顔で椅子カタしてたじゃん。おれが手伝わないから怒ったんだろ?」
 阿比留の眉間に縦線が入った。だれが見ても「何を言っている」という顔だ。
「おれ、日本語で言ってるつもりだけど」
「……言ってることはわかる。でも、俺にはないものだったから」
 アヒルのくせにイヤミか。おれにあって阿比留にないもの? そんなものあるはずない。
 心持ちうつむいた阿比留が帰ろうとした。
 考えるより行動が先体質のおれは、引き戸を押さえて開かないようにした。
「今年の企画、面白そうじゃん。女子とか、どんなだろうな」
 光る眼鏡がおれを見上げた。
「女性蔑視だ。くだらない」
 耳の後ろで何かが切れた。反対側の戸口に向かおうとする阿比留の前に立つ。
「くだらないって、なんだよ」
 銀色のフレームの眼鏡に、チョークの粉がついている。気づかないはずがない。
 ぬぐいもせずに離れたいということだ。ここから。おれの前から。
「みんなで決めたことだろ。正直だるい。めんどくせーよ。でも、くだらないって」
「くだらないのは企画じゃない。女子がどうとかいう、纐纈の発言だ」
「なにっ!」
 阿比留の二の腕をつかんだ。胸ぐらにするつもりを手加減した。阿比留の顔が赤くなる。
「だから纐纈とは嫌だったんだ! 遅れるし、ふざけるし。乱暴もするのか!」
 今度はおれの顔が熱くなった。少し話そうとしただけだ。それを、こいつ。
「あれのどこが女性蔑視だ。ふざけんな!」
 阿比留をつかんだまま部屋の隅を見た。分厚い遮光カーテンが視界に入る。丈が長い。天井から床まで、どんちょうのように垂れている。阿比留が体をよじった。
「はなせっ!」
 この強がりが気に入らない。何でもひとりでできる、やるべきだと思うところが。
 生意気なスズメをカーテンの裏に引っぱりこむ。窓枠に阿比留の背中がぶつかった。
 阿比留が痛みにうめいたころには、おれは後戻りできなくなっていた。
「なんのつもりだ、纐纈!」
 おれより小さな肩を、外側から押すように持った。抑えようとしても力が入る。
 勢いで連れこんだものの、どうするのか決めていない。ただ、指だけが阿比留の肩に食いこんでいく。
「痛い、だろ……ッ!」
 しかめた阿比留の眉が色っぽい。睨むように床を見る目も、赤い顔も。
「阿比留、おまえ、何様のつもりだよ」
 重々しく言ったつもりが焦った声になった。
 カーテンの裏で、男がふたり。こちらが形勢有利なのに、体の重心がうわずっていく。
 床を睨む阿比留が吐き捨てるように言った。
「委員に参加してるだけじゃないか」
「怒って椅子カタしてか。ひとりでアルバム作る気でいるのかよ!」
 薄い肩が強張った。視線がおれをとらえる。眼鏡に守られる瞳が上下左右に動いた。
 こんな目をさせるために話しかけたのではない。どうして怯えた顔をするんだ。
 チョークの粉がうっすら残る手が、おれの胸を押した。
「塾がある……帰らせてくれ」
 震えた、かすれた声だった。眉は人を誘うような形のままで、目はおれを見ない。
 腹の下が熱くなった。想定していなかった場所に血が集まり、焦りはピークに達した。
「! こ、う……うう!」
 気がついたら阿比留の口を右手でふさいでいた。もがく阿比留の腰が、おれの下に────まずいところに当たる。
 おれの息が荒くなり、歯を食いしばって阿比留の口をさらに押さえた。
「うう…………!」
 きつく目をつぶった阿比留が苦しんでいた。眼鏡が内側からくもる。
「ごっ、ごめん」
 慌てて手を離す。阿比留が喉を押さえる。
 ムスコも意気消沈してくれた。
「ごめん。悪かった」
 阿比留は横を向いて目をとじた。震える手で眼鏡を外し、肩を上下させて眼鏡を拭く。
 眼鏡のない阿比留は水泳の授業でも見た。でもこれは違う。同じやつじゃない。
 阿比留の向こうに六月の空が広がっている。パステル画みたいな雲が、阿比留を受けとめる枕に見えた。
 窓ガラスに阿比留の息がかかる。口の形が眉以上に危ない。
 眼鏡をとったら美しい、ではない。手もとに置くのは危険なのに、放してはいけない。
 そう思わせる阿比留が目の前にいた。
「……本当に、塾がある。もういいだろ」
 眼鏡をかけた阿比留がおれを押しやった。カーテンがゆらぐ。
 右の手の平に阿比留の唾液がついていた。
 おれは右手を握りしめ、下を向いた。