目をとじて聞いて

 理系クラスの何が嫌だって、女子が少ない点だ。無条件に男と組まなきゃいけないなら、文系クラスに進んでいた。
「特進クラスには……入れないからな、っと」
 おれはしゃがんで小さく言い、視聴覚室の後ろから入ろうとした。音を出さないようにして引き戸を開ける。
「纐纈(こうけつ)! 今は何時だ!」
 黒板の前で、この集まりの顧問が大きな声を出した。ロの字に並べられた席に座る面々がおれを見る。笑う顔の中に加地(かち)がいて、ほっとして手を振ってしまった。
「早く言わんか!」
「四時十分です!」
 つられて大声になり、さらなる失笑を買う。担任でもある顧問は鉄拳制裁好きだ。おれは殴られる前に気を付けの姿勢をとった。
「集合時間は!」
「四時です! すいませんでした!」
 いつもなら「遅刻は社会で死活問題だ」で始まる説教タイムだ。
 卒業アルバム制作委員の時間は限られている。顧問もわかっているらしい。
「なにやってんだよ、照久(てるひさ)」
 左隣が幼なじみなのはありがたい。加地の小声に答えようとしたとき、右から紙をめくる音がした。
 同じクラスのアヒル────正しくは阿比留(あびる)が、ルーズリーフを開いていた。
 こいつが当分の間、おれの相棒だ。きっと四時十五分くらい前にはここにいたのだろう。
 阿比留はアヒルではなくスズメに似ている。体が小さい。無駄に大柄なおれの横にいると、よけいに小さく見える。
 細いフレームの眼鏡が賢そうに見せていた。まあ実際、頭はいい。おれよりは。
 今度は左から音がした。加地が椅子に腰を下ろしながら、おれを肘で小突く。
「おまえの番」
 おれは立ち上がり、居並ぶ委員の連中に、にっと笑いかけた。「バカケツ」などの、不適切かつ不必要な声は無視する。
「五組の纐纈です。あー、えっと、そのお、今日は遅れて、すいません」
 寂しい拍手と笑いのあと、阿比留が立った。おれが完全に座る前に。
「アヒルのくせに。むかつく」
 加地にしか聞こえないように言い、頬杖をついた。阿比留が眼鏡の縁を指で上げる。
 体に合わない、しっかりした声が響いた。
「五組の阿比留です。いいアルバムができるように頑張ります。よろしくお願いします」
 おれよりも多く拍手をもらった阿比留は、腰かけると同時に何か書き始めた。
 ルーズリーフを覗く。阿比留は委員全員の名前を書きとめているようだ。
「なんでそんなの書いてんだよ」
 眼鏡の奥にある目は動かない。じっと下を向き、クセのない字で書いている。
「なあ」
「静かに。聞こえない」
 二年八組の、ふたり目の委員が自己紹介を終えた。シャープペンシルもとまる。
 まじめなスズメちゃんは、委員全員の組と名前を記録していたのだ。
「書記気取りかよ」
 おれの顔を見たのは加地だけだ。阿比留は目を伏せていた。
「以上、十六名全員が力を合わせるように。全クラス参加の共通企画を決め、世界で一冊の卒業アルバムを作ろう。次回までに企画の案をまとめてくること。解散!」
 顧問の号令で、みんな散り散りに出ていく。加地は同じクラスの女子と話していた。
 加地が空くまで眠ることにした。机に伏せかけたとき、潰していない鞄が目に入った。
 阿比留の椅子に通学鞄が置いてある。鞄の持ち主は、ひとりで黒板を拭いていた。
 することもないので、厚い鞄を持って黒板に近づいた。阿比留が振り返る。
「ありがとう」
 口先だけの声だ。こういうところが、こいつと組みたくない理由のひとつだった。
 スズメちゃんはクラスでトップだ。去年もそうだった。二年になった今年、国立大も狙う特進クラスに入ると思っていた。
 阿比留は理系クラスを選んだ。英語が苦手という消極的な理由らしい。
「くそ重いカバンだな」
 にわか書記は黒板消しを電動クリーナーに吸わせて、再度黒板を拭き始める。
「なにそのキレイ好き」
 黙々と拭く阿比留の後ろ姿を見た。一年のときとほとんど変わらない。チビだ。
「照久。帰ろうぜ」
 後ろの戸口で加地が言う。黒板のそばから離れるおれに、阿比留が声をかけてきた。
「書記じゃないけど、何かあったときのために好きで書いてる。文句はないだろ」
 こいつ。おれのイヤミを聞いていたのか。
「おれも好きでしゃべってんだ。文句言うな」
 加地が待つ引き戸に向かう。ガラスがビリビリするほどの音をたてて閉めた。








「スキで書いてる。だと。ばっかじゃね!」
 おれは丸椅子で大きくふんぞり返った。加地がヘラをお好み焼の下に突っこむ。
「ばかはおまえだ。火、弱くしろ」
「うそ。焦げた?」
 テーブルを覗きこんで火を小さくする。
「こっちは大丈夫みたいだぞ」
 おれのはいい具合のキツネ色になっていた。加地がおれを睨む。
「そっちは火のあたりが均一なんだ。今日はおまえが全部出せよ」
「……わかったよ」
 自宅近くの商店街は、おれたちの遊び場だ。安くてうまいものと、居心地のよさがある。
 商店街の一角にあるお好み焼き屋は第二の我が家と化していた。友達と来て、自分たちで焼いてわいわい食べる。
 むかつくことも、ここでは抵抗なく話せた。数少ない女子との交流報告も。
「おまえんとこはいいよなあ。おれも文系がよかった」
「英語も古典も、いやってほどあるぞ」
「でも、委員は女子と組めるじゃん」
 加地がおれの分にもソースを塗り、取り皿を置く。
「理系だって男女のとこもあるだろ」
 三組ある理系クラスで、女子が委員にならなかったのはおれのクラスだけだ。女子が五人しかいないうえに、全員が演劇部かバスケ部に入っている。どちらもハードな部活だ。
「部活が忙しくてだめだってよ。まあ女子と組めないのはおいといて、おまえんとこにはアヒルみたいなの、いないだろ」
「アヒルって、阿比留か」
 切り分けたお好み焼を食べながらうなずく。加地とおれは一年も二年も別のクラスだ。
 中学も違う阿比留を、加地はよく知らない。
 おれもたいして知ってはいないけれど。
「すかしたやつだぜ、あいつ。人がカバン持ってっても、心のない返事するんだ」
 加地が吹き出した。カツオ節が飛ぶ。
「笑うなよ」
「鞄を持ってかなきゃ、心のない返事もない」
「そりゃ……そうだけど」
 財布の中を見るおれに、加地が自分の分をひと切れよこした。加地のも払うことになった、おれへの礼のつもりだろう。おれは笑って頬をかいた。
「焦げてんじゃん」
「当たり前だ。だれが焦がしたと思ってる」
 ありがとうと言わなくても、笑えば伝わる。阿比留との間にはない絆だ。
「あいつと同じ委員なんて、げんなりする」
「同じクラスだろ。登校すれば顔見るのに」
 加地の言うことはいつも筋が通っている。
「阿比留は細かいこともやってくれそうだ。今だけのつき合いだし、困らないだろ」
 確かにそうだ。何も困らない。
 おれは黙って最後のひと切れを食べた。