次の日、おれは加地の教室にいた。加地は購買部で買ったパンを食べている。
「自分の教室で食えよ、照久」
 昨日は楽しいできごとがあったのか、加地の顔は輝いていた。例の女子も、友達と弁当を食べながら時おりこちらを見ている。
 今のおれに加地をからかう元気はない。野郎に勃起した事実が心を蝕んでいた。
「おい。煮物にソースかよ」
 おふくろによる唯一の手作り食にソースがかかっていた。
「大丈夫か。どっか悪いんじゃないか?」
 おれは答えず、ぼそぼそと言った。
「眼鏡してる人は、眼鏡コミで素顔なんかな」
「なにそれ」
「ドラマで……女の子が、男友達の前で眼鏡外すんだけど、なんつーか、別人みたいで」
「そんなドラマやってたか? 昨日」
 番組表くらい確認するべきだったか。
「ドラマじゃないな。マンガか、夢かも」
「夢って」
 呆れる加地が牛乳を飲んだ。おれもソース味の煮物を食べる。何かあったかと訊かれる前に、口いっぱいに弁当を詰めこんだ。
「よくわからないけど」
 と、パンを置いた加地が続けた。
「眼鏡をとったら美人でラッキー! じゃないなら、男友達はその女の子をもっと知りたいってことじゃないのか」
 知りたい? おれが、阿比留を?
 エビフライをかじった。ソースが足らないせいなのか、はっきりしない味だった。








 金曜最後の授業はホームルームだ。
 議題は決まっていた。卒業アルバムの企画を伝えて、写真を持ってきてもらうように頼む。
 教壇に阿比留が立つ。おれは担任に命令されて、壇の下に置いた椅子に座った。
 黒板に写真を切り取るサイズが書かれた。昨日の集まりで決まった縦横何ミリを、おれはすっかり忘れていた。阿比留がいなければサイズをもう一度訊くところだった。
 壇上で説明する阿比留の声はなめらかで少しも引っかかりがない。カーテンの内側で聞いた、かすれた声とは違う。
「……ということで、五歳くらいまでの写真を持ってきてください。月曜に集めます」
 いっせいに文句の嵐が吹きすさんだ。団結力のなさでは学年一のクラスだ。仕方がない。
「昔の写真なんてあるかな」
「ちっちゃいとき男の子みたいだったからヤダよー!」
「うち、引越し多くて写真ごちゃごちゃだ」
「おふくろ入院してて、どこにあるかわかんねえよ」
「えー。めんどくせーなー」
 最後のはおれも同感だ。
 男の生徒がひとり立ち上がった。おれと同じ程度の頭のくせに、口うるさい野郎だ。
「委員だけで決めるのかよ! それなら最初から案を集めなきゃいいだろ!」
 阿比留がたじろいだ。頬が緊張する。
「決め方は制作委員の方針で……」
「方針なんて知るかよ。オレたちは会に出てねえし」
 何でも一度は反対する。ガキっぽいけど、ありがちなことだ。阿比留に問題があるわけじゃない。言ってみたいから言う。
 それだけのことだし、阿比留みたいなやつには言いやすい雰囲気もある。
 おれは阿比留を見た。ブーイングにさらされる顔は白くなり、膝が震えている。
 こっちを見ろ。そうすれば助けてやる。
「大事な企画だから……ち、力を合わせて」
 憎らしいことに、阿比留は孤軍奮闘した。眼鏡を何度も触ってルーズリーフを見る。
 あほが。紙に書いた記録に答えはないし、もうひとりの委員がここにいる。
 おれは椅子を脇にずらして立ち上がった。阿比留が初めておれを見た。助かったという顔だったら、また座っていたかもしれない。
 眼鏡の向こうの、瞳の揺れ方が同じだった。
 ひとりでアルバムを作る気かと言われて、肩を強張らせたときと同じだった。
 おれは壇に上がって頭をかいた。慣れない場所に立つおれに、みんなの視線が集まる。
「べつにいいぜ。写真、なくても」
 ルーズリーフ用紙が汗の湿気で波打っていた。ふやけた紙におれの指を重ねる。
「卒業アルバムの企画は伝統だ。創立以来、ずっと続いてる。おれらで途絶えても、それはそれでカッコいい。とりあえず校史には残る。くだらねえ方向でだけど」
 立っていた生徒が腰を下ろした。ほかのやつらも鼻の頭をかいたり、椅子に深く座ったり、小さく舌打ちしたり。まあとにかく、波は引いた。
 担任が机を軽く叩く。
「ではいいな。阿比留、委員から伝えたいことがあれば言いなさい」
 阿比留は顔を上げた。もうルーズリーフは見なかった。
「返却できないので、大事な写真はだめです。急がせてごめんなさい。思い出に残る一冊にするには、みんなの力が必要です。よろしくお願いします」
 阿比留が深く頭を下げた。つられておれも礼をする。
 人前でおじぎしたのは、久しぶりだった。








 月曜日。
 アルバム委員の集まりに、阿比留は初めておれと向かった。写真は全員分集まった。
「おれのおかげだな」
 みんなの写真を入れた封筒を振ってみせる。注意するかと思ったら、阿比留は「そうだな」と言っただけだった。
 まだだれもいない視聴覚室に入る。夏が近い季節の、閉めきった室内は蒸し暑い。
 窓を開けたら阿比留の声がした。
「こっちに来てくれ」
 腕を引かれて入ったところは、カーテンの裏、風をはらむ布地の内側だった。
 阿比留が深呼吸して床を見た。胸が膨らんで引っこんで、頬が赤くなる。
 ここでおれにされたことを忘れたわけはないだろう。肩を強くつかまれて、息苦しくなるまで口をふさがれた。張本人であるおれとは話もしたくないはずだ。
「阿比留。なんで……」
 自分からおれを引っぱりこんだ阿比留は、床を見たまま答えた。
「わからない。気持ち、聞いてもらいたくて」
「気持ち?」
「俺、体が小さいし、勉強も人の倍しないとついていけない」
 窓枠に背中をつけた阿比留が、眼鏡をゆっくり外す。小刻みに動く瞳はない。
 熱っぽい、まずいことを予感させる目がある。
「ばかにされたくない。そう考えるうちに、みんなを見なくなってた」
 おれの肩に手がかかる。少し引かれれば、さすがにおれでも理解できる。
 眼鏡を外して目をとじて、背伸びまでするというのは────つまり。
「風あるし、やば」
 唇と唇がふれた。気持ちいいのか悪いのか、わからないうちに離れる。
「纐纈と委員になれて……よかった」
 青い空に似合わない、かすれた声がした。

<  了  >