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第一話・焔 第五章・3


 矢田を見舞ってから二週間経った。
 水曜の朝から学習塾に行き、昼過ぎに自宅マンションに戻る。足取りが軽いのは分数を卒業できたからではない。
 稲見からの体調を気づかう電話以外、社からの電話がなかったからだ。
 塔崎に会えと言われないことが気持ちを楽にさせていた。
 いずれ会わなければならない。銀行家に色よい返事をと思うと、何もかもが嫌になるときもある。
 それでも、いや、それだからこそ、毎日の暮らしを大切にするしかなかった。
 エントランスに入る。受付カウンターに会釈すると呼びとめられた。
「丹羽様。クリーニングが仕上がっております」
 クリーニング店の袋から新品のたとう紙が透けている。
 春樹は女性に礼を言ってカウンターを離れ、飼い犬の鑑札に似たカードキーを出した。








 寝室でクリーニングの袋を開けた。たとう紙の中身は浴衣と帯だった。竹下が今年の春先にあつらえてくれたものだ。
 クローゼットから呉服屋のたとう紙を出し、たたんだ浴衣が崩れないよう注意して移す。
 クリーニング店のたとう紙のほうが新しいのだけれど、竹下の手が触れたことがある和紙で包みたかった。
 先週末、春樹は新田から誘われて夏祭りに出かけた。新田の母が新田に浴衣を着せたがったこともあり、ふたりとも浴衣にしたのだ。夏祭りの当日にアクシデントがあり、春樹の着付けは高岡がすることになった。
 想いを告げてしまって以来、高岡に似た背格好の人を見ると、春樹は平静を保てなくなっていた。
 それが、しれっとした顔で来訪した高岡に下着姿を見られても、思ったより平気でいられた。
 先々週に電話で高岡と話して以来、春樹は凪いでいた。傀儡であっても高岡は傷つかない。本来の仕事ではない、犬の着付けをする余力があることもわかった。
 新田よりも高岡が好きならば浴衣を着せにきた時点で心が乱れたはずだ。高岡の胸を求めなかったことが、春樹に必要なのは新田であるという証拠なのだ。
 浴衣と帯をしまって寝室をあとにする。ダイニングの床にひざまずき、新田がくれたテーブルクロスの角を持つ。
 目を閉じてキキョウの刺繍にキスをした。
 勉強の合間を縫って送られてくる新田からのメールや会話、つないだ手の体温こそ大切にすべきものだ。
 新田の愛情だけが変わらないのだ。キキョウの花言葉と同じに。
 頭の奥でもうひとりの自分が忍び笑いする。
 春樹は一度開いた目をきつくつぶり、『変わらぬ愛』にすがった。








 塾で解くプリントを復習したら空腹を感じた。窓の外は明るかったが、ローテーブルで仕出し弁当を開いた。
 ダイニングテーブルには新田のクロスがあるにもかかわらず、春樹は木のテーブルで食事をとるようにしていた。
 毛足の長いラグマットに直接座り、ガラス板に掛かる家庭的な贈り物を見やる。
 素朴な布製品は手洗いをしなくてはならない品ではない。刺繍があっても洗濯機を使っていいと書いてある。
 至れり尽くせりのマンションに頼って洗濯する気もないくせに、汚したくなくて掛けたままになっていた。

  汚したくないだけか? 押し迫る愛情がうっとうしいんじゃないのか。

 頭に棲むもうひとりの春樹が笑いながら言う。心が不安定なときに出現する、得体の知れない存在だ。
 腹が減っていると精神まで弱くなると、経験で知っていた。もうひとりの自分を無視して弁当箱の蓋を取る。
 ふと、割り箸の袋を破る手がとまった。
(塔崎の世話にならなければ、この弁当も食べられなくなる)
 テレビの横に置いた卓上カレンダーを見る。今日は八月十九日だった。塔崎にイエスと答えるのは八月最後の日曜。残り約十日になったわけだ。
 塔崎の誘いを蹴ればどうなるのか。社のメインバンク関係者である塔崎が激昂しなくても、けじめというものはある。
 社を介した売春ができなくなれば退学するしかない。施設で寝起きする春樹に、新田は変わらず接してくれるだろう。あれこれと気にかけ、場合によっては自分の勉強時間を削ってしまうかもしれない。
 新田に無理をさせることは、体を売るより重い罪なのだ。
 春樹は黒ゴマと梅干しの乗った白米を口に運び、テレビの音量を上げた。地方ニュースが始まる。
「え……っ?」
 箸を置いて画面に釘付けになる。音をさらに大きくした。
「先月二十四日に……区の河川敷で発見された住所不定、無職の西勝成(にし かつなり)さん──」
 テレビに映し出されているのは、朝もやが掛かる河川敷だった。
 灰色がかった青の、くすんだ景色を見たことがある……と思う。
 夏休みの体験アルバイトが終わった日、仕出し弁当を食べたときに見た。箸を割ったはずみでテレビのリモコンを落として、落ちた拍子に違うチャンネルに切り替わったのだ。
 ニュース映像の中央に男の顔が映る。
 春樹はローテーブルの縁をつかんで叫んだ。

「うそ……! あの男……!!」

 金色に染めた髪を忘れはしない。
 新宿にあるホテルの前で新田を殴り、恐喝行為に及んだ暴漢だった。


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