夏休みに入って何週目かの週末、新田から電話があった。
『今夜、空いてるか? 近所で夏祭りがあって……一緒に行かないか』
「行きたいけど、いいの? 模擬試験があるんじゃ」
新田はほぼ毎日の英語塾に加えて予備校にも行くようになっていた。近いうちに予備校の模擬試験があると聞いている。
『試験の準備は終わってる。会いたいんだ』
会いたいと言われると胸に灯りがともる。電話機をしっかり持ちなおした。
『それで……その……浴衣、着ないか』
「浴衣?」
『嫌ならいいんだ。掃除したら昔の反物が出てきたとかで、お袋が作って……』
新田は言いにくそうに、ぼそぼそと続ける。
『正直、困ってる。ひとりじゃ着れないし、動きにくいだろうし』
女親は子どもに色々な装いをさせたいと思うようだ。
肉親ではないが竹下がそうだった。甚平や浴衣、一重の着物などを着せてくれたことを覚えている。
無言の間をノーと受け取ったのか、新田が慌てた口調で言った。
『やっぱりやめよう。洋服のほうがいい』
「いいよ。浴衣、着てみる」
『着てみるって……ひとりで着れるのか?』
「着れないけど何とかなるよ」
『何とかって』
「父に頼んで着付けできる人を紹介してもらう。浴衣あったかな」
携帯電話を片手に寝室のクローゼットを開けた。浴衣を包んだたとう紙の束は簡単に見つかった。
「うん、浴衣あるよ」
『いいのか? お袋の趣味につき合うことないんだぞ』
どうにも新田が煮え切らない。和装は面倒という以上に、母親に従いたくなさそうだ。
「お母さん、見たいんだよ、きっと。修一の浴衣姿。僕も見たい」
電話の向こうが静かになる。
「修一は嫌? お母さん喜ぶと思うよ」
『嫌ってほどじゃないけど……今日の塾は六時に終わる予定だから、家に帰ったら電話する』
「わかった。勉強、頑張って!」
『ばか。お前もだろ』
ふたり同時に電話を切った。
好きな人と夏祭りに行く。仕事をするようになってからは想像すらしていない。
クローゼットの前に座り込んだ春樹は、たとう紙を見つめて『会社携帯』に発信した。
稲見からアクシデントを知らせる電話があったのは午後になってからだった。
「人身事故?!」
『そうなんだよ。もう復旧してるから移動には問題ないんだけど……』
社員寮の寮母をしていた人が春樹の部屋まで来てくれることになっていた。
寮母が乗った在来線が運悪く事故にあったというのだ。怪我でもしたのかと思い、嫌な汗が出る。
「き、来てくださる方は無事なんですか?」
『ちょっと気分がね。空調と照明が切られて、窓も開けられない状態で列車内にいたそうなんだよ。ああ、重い症状ではないから心配しないで』
多少は安心したものの、男娼の私用のために体調を悪くさせたことは事実だ。
「変なお願いしてごめんなさい。その方には、帰って休んでいただくようお伝えください。お見舞いが必要なら、僕にできることはしますから」
竹下の手順を思い出して着てみよう。正式な場に臨むのではないから何とでもなる。
悪いねと言われると思っていたら、予想もしない答えが返ってきた。
『なに言ってるの。浴衣くらいスマートに着られたほうがいい。ぜひ教えてもらいなさい』
「でも、気分が悪いんじゃ」
『大丈夫だよ。高岡さんにお願いしたから』
問い返すことも忘れてしまった。携帯電話が滑り落ちそうになる。
『春樹くん? きみまで暑気あたりじゃないだろうね』
そんなわけないだろうと叫びたい。
叶わぬ希望は胸にしまい、低い声で答えた。
「僕は元気です。高岡さんのお知り合いの方を紹介してくださるのですか」
よほど一本調子になったのだろう。稲見の苦笑が聞こえた。
『高岡さんが教えてくださるんだよ』
「はい?」
『社でお会いしてね。この件を話したら、夕方なら時間があると引き受けてくださったんだ。よかったね』
いいものか!
春樹はのけぞり、頭をかきむしった。
だいたい、あいつに着付けができるのか。高岡の和服姿など一度も拝んだことがない。
『お祭りなんだから楽しんできなさい。夏休みは有意義に過ごさないとね』
「……ありがとうございます」
世話好きな男たちを呪うことはやめよう。ひとりで着られない自分が悪いのだ。
春樹は電話を切って長いため息をつき、浴衣のある寝室に入った。
数時間後、着付けもできるらしい芸達者な調教師が来訪した。
「見事な仏頂面だな」
勝手知ったるわが家然として上がる高岡こそ、嘲笑の見本みたいな笑みを浮かべている。
無駄に見ていると端整な顔に惑わされるだけだ。春樹は目を伏せて迎え入れた。
「アイスコーヒー出しますね」
「結構だ。浴衣は」
高岡はスーツの上を脱いで腕時計を見る。忙しいなら無理して来るな。
「ダイニングテーブルの上です」
この男を寝室に通すのは抵抗があるため、あらかじめ丈が合う浴衣を選んでおいた。
灰色の瞳がたとう紙を改めていく。あまり迷わず、高岡はひとつの包みを一番上にした。
「……あ」
「何だ」
「ちょっと思い出のあるものだから……」
春樹の指が一番上の浴衣に触れる。
とてもいい反物があったからと、竹下が自分の給料であつらえたものだった。
濃紺の生地に雨が降ったような柄が入っている。見た目にはしゃりっとした生地でも着るとごわつかず、肌触りがいい。
お似合いですよと言った竹下の笑顔が心に焼きついている。まぶしそうな目だった。
「雨絣か。いい生地だな。反物から仕立てたのか」
「はい。竹下さん……家政婦さんが」
手染めの糸を使った、かすり模様だと竹下は言っていた。雨がすりというのか。
高岡は選んだ浴衣もそのままに、ソファに腰かけて脚を組んだ。
「必要なものを用意しろ」
「はい」
寝室に入った春樹は、肌着と腰紐、少し迷って一本の帯を持ってきた。
意外にも浴衣は十分程度で着られた。高岡の手つきを真似たら思いのほか簡単にできたのだ。
帯も複雑な結びではなく、前で作った結び目を後ろにまわしていいのだとわかった。
「ひとりで着られそうか」
「あ、はい。ありがとうございます。こんなにすぐ着れるとは思ってなくて」
ソファに腰を下ろす高岡が苦笑いする。
「教えても着られないようでは、引き受けた俺が無能ということになるな」
「そんなつもりじゃ……ごめんなさい」
春樹は口ごもりながら胴まわりを見た。
山吹色の帯が気になる。紺のかすりに合わせたら子どもっぽくないだろうか。
一緒に歩く新田に恥ずかしい思いをさせないか不安になり、高岡を見る。
「苦しいか。どこか痛むか」
「いえ、あの……帯の色なんですけど……」
呉服屋で角帯を見せられたとき、灰がまじった白や藍色のものを選ぶのだと思っていた。
ところが竹下は山吹色にした。ほかの品は目に入らないといった様子で、頑として譲らなかった。
竹下の思い入れと春樹の不安を説明すると、高岡は片方の眉を上げて笑った。
「家政婦の選択は正しいと思うがな」
「そう、ですか?」
「黄の帯は一本あると重宝する。明度いかんではお前の懸念どおり幼く見えるが、その帯なら問題ない。嫌なら別の帯にするだけのことだ」
新田に恥をかかせたくはない。
だが、竹下が選んだものを否定することも幼稚だ。
「これにします……これがいいです」
不思議なものだ。決めてしまえば山吹色の帯でなくては嫌だと思えてくる。
帯の縁を触る春樹の耳に、携帯電話の着信音が届いた。
「すみません」
高岡に背を向けて携帯電話を開く。画面をスクロールする『新田先輩』が春樹の鼓動を速めた。
「塾、終わりましたか?」
『ああ。浴衣はどうなった?』
「着れたよ。たっ、たまたま、着付けできる人の手が空いてて」
高岡が来ていると知られたくない。冷や汗が出てきた。
『そうか、よかった。部屋にいてくれ。一時間くらいしたら迎えにいく』
恐ろしく嫌な予感がした。
気づいたときには、オー何とかに絡めとられてしまっていた。