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「なにするんですか!」
 通話口をふさいで小声で抗議する。笑った形の唇が、春樹の耳朶に触れた。
「会話を続けろ。着せなおしてやる」
 手なおしされると思ってはいたけれど、よりによって新田と電話しているときでなくてもいいだろう。
 こいつが何の楽しみもなく犬の手助けをするはずがない。気を抜いた春樹のミスだ。
 とにかく落ち着け。新田と話さなくては。
「む、迎えにくるって、どういうこ……と……っ!」
 ほどかれた帯が床に落ちる。高岡の邪悪な手を押しやろうと必死の抵抗をした。
 甲をつねったり、腕をつかんで引っ張ってみたりする。案の定びくともしない。
『春樹? どうかしたのか?』
「ちょ、ちょっと、ちょっと待ってて!」
 携帯電話の保留ボタンを押した。高岡の足を踏もうとしたが苦もなくよけられる。
 高岡が春樹を抱き寄せ、笑いを押し殺した。
「迎えに来ると言っているのか」
「そうですっ! もう来るから、やめ」
「浴衣を脱いでソファに腰かけろ。迎えは断れ。着付けた者を送りたいとでも言え」
 今ここにいる人間が何者なのか考えるべきだった。
 寝室だろうがリビングだろうが、ところかまわずいやらしいことをする人種なのだ。
 浴衣を脱ぎ、肌着姿で腰を下ろした。冷笑を浮かべて身をかがめる高岡から目を離さないようにして、保留状態を解除する。
『どうしたんだ。何かあったのか?』
「着付けしてくれた人の具合が悪くなったんだ。送っていきたいから迎えはいいよ」
 不明瞭な雑音のあと、少ししてから新田の声が聞こえた。
『親の車で行くから、その人さえよければ送っていく。家までは困るなら一番近い駅まででも』
 しっくりしない。家族が運転する車に一面識もない人を乗せたら気後れするのではないだろうか。
「訊いてみるから、もう一回待って」
 ふたたび電話を保留にして高岡を仰ぐ。高岡は片膝をソファに乗せているだけだ。春樹に触れようとはせず、じっと見下ろしている。
「何と言っている」
「着付けた人も車で送るって言ってます。何か、一歩も引かなくて」
 形いい唇の端が、にやりと上がった。
「どうあってもお前を長く歩かせたくないとみえる。では申し出に甘えてやれ。着付けた者は家人が迎えに来ると答えればいい」
 横っ面を張られたようなショックを受けた。
 新田は引かなかったのではない。慣れない雪駄に配慮したのだ。歩く距離は短いに越したことはない。
 好きな人の思いやりに気づくのが、こんな男より遅いなんて……!
 保留から通話できる状態に切り替える。
 高岡が悪戯を再開した。春樹の胸から腹、腿を無遠慮に撫でまわしてくる。
「ごめんね、修一。着付けの人はタクシーで帰るって」
 膝を撫でていた高岡の手がとまる。
 春樹は鼻の奥がつんとするのを感じながら、目をきつく閉じた。
「ごめんね……僕もタクシーで行くよ。着いたら電話する」
 調教師に何か言う間を与えず、電話を切った。電話機を折りたたんでソファに放る。
 両手で顔を覆った。こらえていた涙があふれ出す。
「好きにしてください」
 震える声がこもる。
「何されても文句は言いません。会社にも内緒にします」
 高岡の手が春樹の手首をつかむ。春樹は身をよじり、叫ぶように言った。
「一時間で修一に会わせてくれるなら言いなりになります! だから早くして! 早く帰って……!」
 手首が自由になった。乱暴に抱けばいい。口外などしないから安心しろ。
 二、三分は経っただろうか。
 ローテーブルに何かが置かれる気配がした。次いで水音がして、ひたいに冷たいものが触れる。
 見上げた先に、心なしかうつむき加減の高岡がいた。
「泣き腫らした顔では新田が心配する。よく冷やせ」
 高岡は浴衣をたたみ、帯や腰紐と重ねてソファに置いた。スーツのジャケットを持って出ていく。
 ローテーブルには氷水の入った洗面器があった。
 水は痺れるほど冷たく、新田の心に気づかなかった春樹の頭を冷やした。








 まぶたが腫れていないことを確認して、浴衣に手を伸ばした。
 受付カウンターを通さない音色でインターフォンが鳴る。春樹は時計を気にしながら受話器を上げた。
「どなたですか?」
「俺だ。開けろ」
 インターフォンの画面に高岡が映っている。何ごともなかったかのような顔だ。
 押し問答は罰を食らう要因になるだろう。これ以上嫌な気分になりたくない。渋々玄関ドアを開けた。
「忘れものですか」
 靴を脱ぐ高岡にひと睨みされる。睨まれる覚えはないのに防御の姿勢をとってしまうのが情けない。
「煙草を吸ってきただけだ。俺は着付けを依頼された。仕事を完遂するまでは帰らん」








 五分とかからず完璧な浴衣姿が出来上がった。帯も教えられて結んだときよりすっきりしている。
「何事も繰り返しだ。折を見て自分で着れば、目をつぶっていてもできるようになる」
「……わかりました」
 着付けをするときの高岡には笑顔がなかった。春樹はふと、山吹色の帯に目をやった。
「あ、あの」
 廊下を進んでいた高岡が振り返る。
「似合ってません……か……?」
 何が気に障ったのか、整った顔が険しくなる。
 怒っているとわかるオーラを漂わせて靴を履き、前髪をかき上げた。
「答えを求める相手が違う」
 低く響く声と、高岡の香りだけが残った。








 夜祭りは盛況だった。多彩な灯りと、食べもののにおいにあふれている。
「……春樹」
 優しく呼ばれて隣を仰ぐ。新田はあらぬほうに目をそらす。重ならない視線が寂しくて春樹がうつむく。
 祭りの会場である神社で落ち合ってから、ずっとこの調子だ。
 迎えに来させなかったことが引っかかっているのだろうか。いきなりは訊けず、女々しい声が出た。
「帯、変かな」
 新田の浴衣は藍より若干淡い色合いで、帯は白地に灰の模様が入ったものだった。結びかたは武士に倣ったものとのことだ。涼しげで男らしく、凛としている。
 前を見て歩く新田が深呼吸した。頬の高い位置に朱色がある。
「変じゃない。すごく……似合ってる」
 かすれ気味の声が体温調節を狂わせる。耳の先まで火照り、心臓が雨絣の布地を突き破りそうだ。
 緊張しきりだった新田の顔にやわらかさが戻る。言葉にして落ち着いたのかもしれない。
「お前に相談してよかった」
「相談……?」
「浴衣を着ないかって相談。親のお仕着せは恥ずかしい、なんて、意地を張らずにすんだ」
「お母さん、喜んだ?」
「ああ」
 綿菓子を持った子どもが走っていく。目まぐるしく動く足の軌跡を追っていると、連続した爆裂音がした。
 仕掛け花火だ。続いて打ち上げ花火が始まる。
 参道を歩く人が花火に気をとられる。春樹も例外ではなく、音と光の虜になった。
 これほど腹に響くものだっただろうか。
 火薬のにおいも風が運ぶ煙も、すべてが波となって春樹を取り込んだ。
「すごい……! 花火があるなんて知らなかった!」
 大声で言う春樹に、新田が快活な笑顔を見せる。
「言ってなかったか!」
「うん! 言ってない!」
 境内が花火の光で照らされる。春樹は背伸びして新田の耳に口を近づけた。
「送ってくれるっていう電話、嬉しかった。ありがとう」
 新田は何も言わず、春樹の手を握った。佳境に入った真夏の競演が空気を震わせる。
 薄墨色の空を八重の花が彩る。ひとつの閃光が消える前に、次の光の輪が広がる。
 花々の輪郭が交わり、春樹は新田の手を強く握り返した。
 来年もこの人から似合うと言われたい。
 いつにも増して大きく感じられた新田の手は、花火が終わるまで離れなかった。




<  了  >







2011年夏祭りSSのはずが秋に発表という(汗)
悪戯心を起こしたばかりに、ちょっとしょんぼりな狂犬先生でありました(笑)

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