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第一話・焔 第五章・3


 数十分後、リビングは広げた新聞紙で埋めつくされた。
「七月三十一日……八月一日……」
 新田に刃物を向けた暴漢、西勝成という男が都内の河川敷で死体となって発見された。
 春樹は西が発見された七月二十四日以降に届けられた新聞を一紙残さず広げ、隅から隅まで読んだ。
 顔写真を使った記事はなかった。フローリングに散らばる全国紙の朝刊と経済紙を見まわして安堵の息をつく。
 テレビのニュースと全国紙の小さな記事が教える事実は少ない。
 西は刃物で刺されて死亡したこと、西の交友関係等を調べていること、くらいだ。
「交友関係──」
 不意に、井ノ上のシルエットを思い出した。

 笙子が断りなく東京に来た日、春樹は笙子を公園まで連れていった。ベンチで笙子は缶飲料を落とした。御宣託でも授かったかのように、ガラス細工の目で空を凝視していた。
 あのとき、春樹は奇異な映像を頭で直接感じたのだ。
 西に近づきつつ、軍靴のあたりから刃物を抜く井ノ上の姿を。

 公園には春樹と笙子、数人の通行人しかいなかった。ざっと鳥肌が立つ。
「笙子さん……そうだ! 電話!」
 弾かれたようにソファに向かう。ソファに転がっていた携帯電話を開いて発信履歴を見た。
 笙子を駅に送る前、この携帯電話を貸した。黙って上京した笙子を、彼女に近しい人が心配していると思ったからだ。発信履歴をさかのぼると、東京ではない市外局番の番号がひとつだけあった。
 表示した番号に発信しようとしたとき、テレビから笑い声がした。クイズ番組の宣伝をしている。お笑い芸人であるゲスト解答者の答えが観客席の笑いを誘っていた。液晶テレビを見る春樹の口が薄く開く。
 新田はテレビを見ただろうか。先ほどの地方ニュースを、見てしまっただろうか。
 もともと新田はテレビに執着するタイプではない。出会ったばかりのころ、どんな番組が好きか訊いてみたことがある。春樹が好む海外ドラマも音楽番組も、ほとんど見ないと言っていた。週末に家族と報道番組を見る程度だ、とも。
 英語の塾に加えて予備校にも通うようになっているのだ。平日の夕方、新田が自宅にいるとは考えにくい。
 西の死体発見を報じる新聞を改めて見た。やはり顔写真はない。現時点ではテレビにしか顔が出ていないと考えても大丈夫だろう。
 念のために携帯電話をインターネットにつなぐ。思いつくかぎりの言葉で検索してみたが、西の顔写真を掲載している記事はなかった。ニュース自体も目立つ扱いではない。
 死んだ暴漢の顔を見れば新田も反応を示す。春樹よりも間近で西を見ているのだ。
 テレビに映った西の顔が浮かぶ。写真はほかになかったのだろうか。金色に染めた髪ではない、たとえば学生服を着たものでもよかったはずだ。住所不定では写真の入手が困難なのかもしれないけれど。
 西勝成──暴漢にも名前があった。当たり前だ。当たり前のことが重くのしかかる。
 人がひとりこの世からいなくなったと知らせたテレビは、底抜けに楽しそうな番組の宣伝を続けていた。








 春樹はダイニングの椅子に座り、携帯電話を見ている。時間は夜の十一時を過ぎていた。
 この時間に新田からのメールが入ることが多い。最寄り駅から自宅に向かうころなのだろう。
 新宿にある、男同士でも利用できるホテル前から新田は逃げた。一旦逃げて、警察官を呼んで舞い戻った。
 戻ったものの事情を追求されると新田は再度逃走した。あの夜は深追いしなくても警官はばかではない。新田の顔を覚えたに決まっている。
 つまり新田は、警察に顔を知られた。
 刺し殺された暴漢を調べれば、ホテル前で起きた揉め事に行き着く。西が新田に暴力を振るったのは五月のことだ。警察はすでに把握しているかもしれない。

 西を刺す動機がある者として、新田修一の名前が挙がっているかもしれないのだ。

 電話機を持つ指先が白くなる。
 人が亡くなるのは大変なことだ。一瞬にしてすべてが幕引きされる。
 新田が何か訊かれるのは避けられないとしても、未来に傷を付けてはならない。
 深呼吸して新田の番号を呼び出した。通話ボタンを押す。
 数回のコール音のあと、息せき切った声がした。


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