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第一話・焔 第五章・3
「春樹! ちょうどよかった。話したかったんだ」
ぎくりとする。夕方のニュースを見たのかと思い、冷たい汗が背中を伝う。
「な……なに? 修一、今どこ」
「駅。改札を出るときに着信に気づいた。切れる前に出れてよかった」
新田の声はあくまで明るい。西の死を知っているとは思えない声音だ。
「春樹。明日、出席するか?」
「明日……?」
「登校日じゃないか」
夏休みには一日だけの登校日がある。出欠は任意で調査書にも響かないと言われていた。
すっかり忘れていた春樹をよそに、新田は溌剌とした声で続けた。
「俺は出席する。ホームルームが終わったら補習する予定だから、話せないと思うけど。お前が登校するか知りたかったんだ。近いところにお前がいると……なんか、安心できる」
気恥ずかしそうな声が胸を刺す。熟考して電話をかけたはずなのに迷いが生じた。
「どうした? 明日、用事でもあるのか?」
腹を括り、テーブルクロスに触れて本題への入り口を探った。
「用事はないよ。僕も登校する。みんな日焼けしてるかな」
「どうかな。小学校のころみたいに真っ黒なやつは、いないかもな」
「そうだよね。勉強、大変だし。修一はいつも昼に英語の塾で、夜は予備校なの?」
「ああ。早い時間に予備校の講座を入れることもあるけど、だいたい塾が先だ」
「今日の夕方は、やっぱり塾だった?」
「夕方……五時には予備校に着いてたな。塾が四時に終わったから」
「そっかあ。じゃ、電話すればよかった」
電話機を通して「何をだ?」と聞こえる。
目をしばたく新田の顔が浮かび、クロスの隅に咲くキキョウをそっと握った。
「今日、塾でいいことがあったんだ。嬉しくて修一に電話しようとしたんだけど、忙しいだろうって思いなおして。メールじゃなくて、声で伝えたかったから」
踏切の警報音が遠ざかる。新田は駅をあとにして家に向かっているのだろう。
「塾で何があったんだ?」
「習ってるとこが進んだだけ。こんな時間に電話してごめんね。修一、ご飯はどうしてるの? お弁当とか持ってるの? 塾は朝からあるんだよね。足りてる?」
「弁当は一応持ってる。正直足りないから、予備校の前に何か買って食べたりはする。それより、勉強が進んだことは誇っていいんじゃないか。『だけ』なんて言わないほうがいい」
軽食をとる新田を想像した。ファーストフード店やカフェにもテレビはある。
「誇るってとこまでいかないけど……卑屈になるのも変だよね。ね、今日も何か食べた? 夕方」
「コンビニの惣菜パン。なんだよ春樹、やけに食べものの話をするんだな。お前こそちゃんと食べてるのか?」
「食べてるよ。修一がくれたテーブルクロス、すごくいい感じ。ありがとう」
目では清楚な刺繍を見て、頭では新田が西の死を知っていないか確認する。
つくづく自分のしていることが嫌になってきた。
「……プレゼント、役に立ったと受け取っていいのか」
「えっ。あ、う、うん」
生返事をしてしまった。最低だ。情けなさから一方的に切ってしまいたくなる。
「よかった。愛してる……おやすみ」
新田と同じ言葉を返して会話を終えた。両手でひたいを覆う。
もろい天秤の皿に西勝成と新田が乗っている。
どちらが重いか決着のつかないまま、時計の針だけが回っていった。
翌日、登校した春樹は校庭に竹ボウキの跡を見た。
朝刊に西の顔写真はなかった。昨日見つけたものより、さらに小さな記事があっただけだ。時間が許す限りテレビを見ていたが、どの局も顔は映さない。西の死は社会を揺るがすものではないのだ。
夏休みも残り少ない、生活を律しろという担任の言葉でホームルームが終わる。春樹のクラスは集まりが悪かった。三分の一程度しか来ていない。夜更かしが続いているのか、船をこぐ生徒もいた。
あくびをする生徒たちが帰るなか、森本がロッカーの前で首をひねっていた。春樹を見るなり手招きする。
「瀬田から電話あったみたいなんだよ。自宅から。あいつ今日、休みじゃないはずなのに」
退学した瀬田が勤めるトンカツ屋は月曜が定休日だ。月曜のほかに休みがあるのだとしたら、親友である森本には言うだろう。春樹も森本の電話機をのぞき込む。
「いつかかってきたの?」
「んー、五分前」
「考えててもわからないよ。かけてみれば? まだいるかもしれないし」
難しい顔をして通話ボタンを押した森本が、間を置かず大きな声を出した。
「ほんとか?! よかったなあ! 今から行くのか? うん、うん────」
廊下の窓から身を乗り出し、青い空が似合う笑顔でしゃべり続ける。
春樹は森本の横に立って二年生の教室群を眺めた。ひとつだけ蛍光灯がついている教室がある。新田が属する特進クラスだ。補習があると言っていた。
携帯電話を閉じる音がして、森本に脇腹を小突かれた。
「瀬田の父さん、今日退院するんだと。おれも手伝えることがあるかもしんねーから、行ってみるわ。あいつは来なくていいって言ってるけど。じゃあな! 二学期にな!」
瀬田の父親が体を壊したことは聞いている。入院するほど悪かったなら、森本の喜びようもうなずける。
森本は素晴らしいスピードで校庭を駆け抜けた。あっという間に見えなくなり、春樹は廊下の窓を閉めた。
『近いところにお前がいると……なんか、安心できる』
新田が暴漢の末路を知るとき、春樹は近くにいられるだろうか。人の死という衝撃から守れるだろうか。
まっすぐ廊下を進んで玄関ホールを抜けた。土が白く乾いた校庭を歩く。
死は平等に受けとめられるものなのか。そうである必要があるのか。
遺影の母しか亡くしていない春樹には、露ほども考えられることではなかった。
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